見出し画像

栞 -本屋余白の閉店を迎えて

はじめに

こんにちは。本屋余白代表の小澤です。
本屋余白は本日2022年12月26日を以て閉店します。閉店に際し、大学二年生の二月から大学三年生の十二月までの、本屋余白としての日々を振り返り文字に残したいと思います。一義的には備忘録ですが、誰かに読んでもらうことも望む我儘な文章です。僕個人と本屋余白の目線、敬体と常体が混同する文章になりますがどうぞお付き合いください。

第一部 本へのベクトルが僕の中に生まれた理由

書き始めに悩むので、ひとまずは個人的に気になっていたことから書いてみる。それは、この一年、なぜ本へのベクトルが僕の中でかつてないほどに存在感を放ったのだろうか、という問いである。本屋を始めたし、本をしっかりと(たくさんという言葉よりこちらの方が適切な気がした)読んだ一年だった。本屋と読書は似て非なることだが、分けて考えなくてもここでの僕の興味は満たされる。差し当たって、本へのベクトルという言葉でまとめておく。以下三つの考察を記す。

直線的で速い世界からの逃避

僕は愛知県の町で十八歳まで育った。大学進学と共に住み始めた東京での日々は、楽しくも疲れるものだった。上京話としてベタすぎるので割愛するが、あまりにも心が疲れて地元の島を歩くためにこっそり帰省したこともあった。人と情報の弾丸を浴びる僕にとって、本屋の空間と読書は極上の防空壕だった。
本屋は不便だ。欲しい本はすぐには見つからない。だからいいのだ。
読書は時間がかかる。倍速だってできやしない。だからいいのだ。
僕はそこで一人になり、自分の時間を丸ごとたっぷり自分のために使う。誰も何も僕を邪魔できない。そんな時間が僕には必要だったのだ。
ちなみに、僕は東京でもなんとか頑張っているつもりだ。東京の暮らしに慣れて、素敵な友達もできた。地元での僕を知る友達に向けて書いておこう。

好奇心の活性化

なぜ私たちは旅をするのか?
旅は、私たちがホモ・サピエンスであることと関連がある。好奇心だ。『無用な』知識を求めて努力し、知恵を拡大し、視野を広げ、世界像を拡大し、混沌を整理し、秩序を確保しようとする意思である。

ペール・アンデション『旅の効用』P154

純粋だが、確からしい解だ。今年は機会に恵まれてたくさんの旅もした。
次の問いは当然、この一年間になぜ好奇心が活性化したのか、である。
これについては、鶏と卵の関係で、本へのベクトルが先か、はたまた好奇心の活性化が先かは分からない。余白や読書を通してたくさんの本に出会ったことが好奇心の活性化を促したかもしれないし、好奇心の活性化が余白という未知の体験や読書による世界の探究の原動力になったかもしれない。
一つ言えるのは、好奇心の活性化と本へのベクトルのサイクルが回り出したきっかけは、『旅の効用』との出会いであるということだ。世界の広さ、そして読書、本屋という空間へ僕を引き寄せてくれたこの本に感謝をしたい。

ハイデガー的理解(備忘録的性格強め)

一年前の僕は、自分とは何者かを知りたかった。その理由は明白だ。高校卒業まで、僕は勉強や運動など限られた尺度の中で生きてきた。世界は限定的で、周囲から与えられた僕の像を受け身で認識していれば事足りた。しかし大学に入ると、世界は急に開けて、僕を定義していた尺度は存在感を失った。余白を始めることになる原体験の一つが、大学一年の春に中国語の小テストで全然勉強してこなかったクラスの友人に負けたことだった。あの時のことを、勉強という尺度であっさりと明確に負けた体験として記憶しているし、色んなところでそうやって話してきた。それは間違いではないが、実は僕を本屋余白へ駆り立てたものは、尺度の中での敗北ではなく、尺度そのものの不在ではないか。中国語のテストができるからといって、高校までと違ってその事実が僕らしさになんの影響も持たないことに焦ったのではないか。あの頃の僕は突然世界が開けて多様化したことに戸惑っていた。自身を規定するものがなくなったことで、自分らしさを見失い、それを求めていた。
ところでハイデガーによると、人間を意味する現存在は、自分にとっての個別的現実である「現」のうちにある。すると自身についての存在了解は、自分自身がその内に置かれている「現」すなわち自分固有の状況の理解を含んでいることになる。「現」の中には当然だが自分ではない存在者も存在するので、「現」を理解するためには必然的に現存在が他の存在者についてもつ存在了解の解明が要請される。
これを僕の話に敷衍してみる。僕は自分とは何か、つまり現存在とは何かを知りたかった。そのためには「現」に立ち現れる様々な自分以外の存在者について自分が持つ存在了解を解明しなければならなくなる。この自分以外の存在者を理解するため、僕は本の中にその答えを求めたのではないか。言い換えると、本を読むことで自分以外の存在者の存在了解が達成され、すなわち「現」の解像度が上がり、結果として現存在への理解が成熟することを、本能的に察知していたのではないか。
僕だったら、他人がこんなことを書いていたら、後付けだろ!とつっこみたくなる。実際、当時はこんなこと一ミリも考えていなかった。しかし個人的には腹落ちしているので問題なし。

ここまで、本へのベクトルが僕の中に生まれた理由について三点の簡単な考察を与えた。スロースタートだが書いている僕は楽しい。

次は、本屋余白としての経験を通して自身におきた変化について考えてみる。

2022.04.22   東大駒場キャンパス書籍部開店日の様子

第二部 余白の経験を通して僕に起きた変化

世界のあたたかさの再発見

別に何かに絶望していたわけではない。ただ余白を始める前の僕が何とも言えない窮屈さを感じていたのは確かだ。そんな僕が余白の経験を通して、世界のあたたかさに気づくことができた。そのおかげで、この世界に立ち向かう勇気を手に入れた、先にまとめておくとこんなところだ。

「おすすめ」というシステムについて考察する。
余白では、お客様にとって大切な一冊を集めていた。おすすめをしてくださった方への失礼は承知で、次の問いを立ててみる。

おすすめをする側には、どんなメリットがあるのだろうか。

メリットというと何やら打算的だが、余白でのおすすめは、祈りだと僕は解釈している。『世界は贈与でできている』という本がある。僕のBest book of 2022だ。ちなみにお世話になった一箱店主のはるから書店さんもおすすめしていた。資本主義は等価交換の関係に物事を陥れるが、その隙間を贈与のシステムで埋めよう、そんな本である。この説明では不足なのでぜひ読んでいただきたい。
さて、贈与には差出人と受取人が存在する。祈りとは、その祈りが届かないことを前提とした、差出人の「誰かに届いてくれるといいな」という倫理である。これはまさに余白のおすすめではないだろうか。おすすめした本が売れるかわからないけれど、誰かに私の大切な一冊が届いたらいいなと思ってくれた人が、余白におすすめをしてくれる。メリットという打算的で効率的な資本主義からこぼれ落ちる人間のあたたかさこそが、おすすめなのである。だから僕はメールにおすすめの通知が来るたびに、世界のあたたかさを感じていた。誰かの祈りが、またひとつ余白の元に届いたのだ。
システムだけでなく、お客様からいただくおすすめメッセージはどれも心温まるものだった。それぞれの本を大切にしていることが伝わってくるおすすめを数多くいただけたことを幸せに思う。

おすすめ以外にも、僕が世界のあたたかさに気づくことができたきっかけはある。
まずはBookshop Travellerのたくさんの一箱店主さんの存在だ。一学生がこのようなことを書くのは僭越だが、皆さんがとても輝いていた。他のお仕事をされながらでも、自分の好きなものを追求する姿はとても美しく、人間らしいと思った。
東大と慶應の書籍部の皆さんからは、余白に対して手厚いサポートをいただいた。売上は100%いただき、場所代はタダ。什器も設備もたくさん貸していただいた。機会費用を考えると効率的でないのは明らかだ。それでも僕らに挑戦の機会を与えてくださり、応援の言葉をかけてくれた。
福岡の地に赴いてAll Books Consideredさんとお話しできた。彼らは僕達と同じ大学生。同世代が同じ本屋として静かに熱く世界と対峙していることを知れた。僕らの世代が世間にどう思われているかは知らないけれど、同世代に想いを共有できる人がいることはこの世界を好きになるには十分な理由だ。
僕はこの一年で、こうなりたいと思える人にたくさん出会うことができた。

また、ここには書ききれないような、些細だけれどあたたかいと思う日々の事柄が増えた。多分、元から世界はあたたかかった。僕がそれに気づけるようになったのだ。

競争へ身を投じる勇気

オンリーワンとは、ある文脈においてのナンバーワンを指す

森岡毅『苦しかった時の話をしようか』P35

本屋余白の成り立ちにおいて外せないワードが、「競争」である。当時の僕は競争に怯えていた。競争を避けていた。それは先に書いた通り、大学で競争に負けたことが原体験だ。そして、余白を始める前に読んだ『ビジネスの未来』の脱成長主義的なメッセージング(当時はそう捉えた)に心打たれた。競争なんて誰も幸せにしない。本気でそう思っていた。
しかし、どうだろう。何者かになりたいのならば、何かを為したいのならば、競争を避けてはいられない。先日多賀が「競争的な人生の中にも色々あるはず、と考えるのは大事だと思う」と言っていた。その通りだ。僕は余白を始めた当時まで、「競争」を一括りにして怖がっていた。しかし物事が発展するためには、それが人であれ集団であれ社会であれ、競争は必要だ。自由主義経済の根幹を成す競争原理を思いだそう。

僕に要請される誠実な態度は、競争について更なる思考を巡らすことだろう。
「僕にとっての」良い競争と悪い競争があるとすれば、その境界は何だろうか。僕は、僕個人の主体的で俯瞰的な姿勢だと思う。サッカー選手のように何かを為すために自分が望んでその競争に身を投じる場合は極めて主体的な競争だ。受験のようにその競争に半強制的に巻き込まれていたとしても、競争の中で戦う意味を自分なりに見出せている場合は、自身を俯瞰的に見れているという意味で良い競争である。
悪い競争はその逆。受動的で近視眼的なそれだ。大学入学当初の僕はそうだった。小テストなんていう今振り返ると取るに足らない(先生に怒られそうだけど)競争に受験の余熱で主体性なく絡め取られ、勝手に敗北を感じていた。ビジネス書を読み漁り、周りに負けじと長期インターンを始めた僕は、たった数十人のクラスやサークルの仲間が世界の全てに見えていた。

余白はどうだっただろうか。僕達は12月までにおすすめと売り上げの目標数を立てていた。世の中にたくさんある本屋さんの中で余白を選んでもらえるよう、みんなで話し合って工夫を凝らした。うまく行ったこともそうでなかったこともたくさんあったが、総じて楽しい時間だった。無理に余白を競争と結びつけるのも強引な気がするが、余白の目標達成までのプロセスが楽しかった理由は、主体的に余白に取り組んでいたからだろう。

僕はこれからの人生で待ち受ける競争に前者のような姿勢で挑んでいく心構えができている。

資本主義を手懐ける

競争というワードと切り離せないのが資本主義だ。この概念も今や流行り言葉だが、多様な意味を持つ言葉なので取り扱いには気をつけたい。余白を始めるにあたっては、資本主義に対して斜に構えていた。そうすることで自身を正当化しようとしていた。この点については、より実際的な方向に改善できた。余白での経験を通して、僕は資本主義のすきまを大事にすることができるようになったのだ。それはつまり贈与であり、人間のあたたかさである。資本主義を全肯定する気は未だにないけれど、全否定する気も最早ない。実際、僕は社会的に見れば資本主義の恩恵を十分に受けている存在だ。資本主義のおかげで楽しいことはこの国にはたくさんある。それでも、資本主義を相対化することができたという意味で、この一年間は、アンチ資本主義時代の僕も含めて、意味があった気がする。三年生の前期に受けた経営史の授業のキーワード、'Taming Capitalism'が今も頭に残っている。

自分の中の幹

どんなに穏やかに見える人生にも、どこかで必ず大きな破綻の時期があるようです。狂うための期間、と言っていいかもしれません。人間にはきっとそういう節目みたいなものが必要なのでしょう。

村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』P72

以前どこかで書いたが、この一年は今までの十九年とは全く異質の一年だった。穏やかで心地よい破綻の年だった。
幹というのは、価値判断の軸みたいなものだ。何が好きで、何が嫌い。この部分はいいと思うけど、それ以外はイマイチかな。そういう類のことを考える頻度が、格段に増えた一年だった。色んなことが次から次に気になり出したのだ。全ての理由は分からないが、本との触れ合いと余白を通したたくさんの人との出会いはその理由の一つだろう。この幹は、僕という個人が将来ぶれそうになった時に支えてくれるものな気がしている。

世界を記述する言葉が増えた

古典的な言い回しを使えば、僕らは言葉を用いて世界を「分ける」ことで、世界を「分かる」。少なくとも西洋的なものの見方をすれば、僕らは世界をバラバラに切り刻むことでやっと、世界に似た何かを手中に収めることができる。

爪痕 ~余白の卒業にかえて~ (旧副代表 多賀陽平)

自分の感情や思考を、以前より精緻に表現できるようになった気がする。それは嬉しいことである。言葉に限界はあるけれど、それでも言葉でこの世界をできるだけ記述したい。理性では割り切れぬこの世界を、それでもこの知力の及ぶ限り隅々まで捉えたい。

2022.10.09   一箱古本市の様子

第三部 これからへ向けた選手宣誓

余白は終わるけれど、僕の生活は続く。その中で大事にしたいと思っていることを文字に起こしてみる。

自らの人生を主体的に生きていく

形而上的反抗とは、人間が絶えず自己自身に現前していることだ。それは憧れではない。それは希望を持たぬ。この反抗とは、圧倒的にのしかかってくる運命の確信 ーただしふつうならそれに伴う諦めを切り捨てた確信ー それ以外のなにものでもない。

カミュ『シーシュポスの神話』P96

僕は自らの人生を主体的に生きていきたい。至って普通の言葉だが、難しい言葉で飾って自分に嘘をついても仕方がない。僕が余白をやってみて一番大事だと思ったのはこれだ。
余白は自分で考えてこれが良いと思って始めたものだ。上手くいかない時もたくさんあったがその時すらも楽しかった。誰にもやれと言われていないけれど常に余白のことを考えていた。余白を離れても、人間や自然、社会に対しても主体的に関わるようになっていった。何か自分が良いと思ったものを信じて、そのために積極的に頑張ること。
そして何より、主体的に生きることは楽しくかっこいいと思う。これは自由に生きることとは微妙に違う。自由よりももっとタフで本質的な生き方だ。

友人の中には既に企業から内定をもらっている人もいれば、なりたい職業のために資格試験の勉強をしている人もいる。社会に出て働いている友人達は、なんだか大人びて見える。彼ら彼女らは皆輝いている。
(それに比べて)僕は、まだやりたいことも決まっていない。
でも、僕は僕にワクワクしている。僕はこういう決断に対しては慎重な性格だ。だが何が起こるかは分からないということは分かる。本屋をやるなんて高校生の僕は信じないだろう。大切なのは明晰な視力で世界を眺め、自らの意識に覚醒し、この毎日を主体的に生きることだ。

引用文にカミュはこう続ける。「こうした反抗が生を価値あるものたらしめる。ひとりの人間の全生涯に貫かれた時、反抗はその生涯に偉大さを恢復させるのだ。」

真の豊かさを求める

ある人に言われた言葉に、忘れられないものがある。

「君の本屋はお客さんに本を通して心のゆとりをもたらすことを目的にやっているんだね。ところで、本を買う習慣やお金がある人、Amazonではなく余白の店舗で本を買う時間的余裕がある人、実はこういった人たちは既にゆとりがあるんじゃないかな?君が価値を届けたいのはそういう人だけなの?」

僕はその時何も答えられなかった。今ではこの問いに対して自信を持って答えられるし、だからこそ折れずに余白を続けてきた。「そういう人の中にも、ゆとりの余地は十分にあります。かつての僕自身がそうでした。」
しかしこの指摘は無視出来ない。
この人の言葉は、余白の活動を超え、僕の人生に次の命題を提起する。

この多様な人々が生きる社会においての真の「豊かさ」とはなんなのか。

僕はこの答えを見つけたい。向こう数年、もしかしたら数十年のテーマになるかもしれない。
品のないことを書くが、僕は東大生だ。社会全体を見渡した時、こんな僕でもそれなりに多くのものを持っている。「正しさよりも優しさが欲しい」と流行りのバンドは歌うけれど、僕は欲張りなのでどちらも欲しい。強くて優しい人間になりたい。自分が全能だとは微塵も思わないが、思わないからこそ、この不十分な自分の持てる精一杯を誰かのために使いたい。それが自分にとって幸福だと思う。

余白の中で僕の好きなポイントの一つが、その開かれた公共性だ。多種多様な人からのおすすめが並び、多種多様な人がそれを買っていく。僕達の棚に選書を通した余白の色はないが、色がないことが余白らしい。
「令和の万葉集になりたい」なんてことを多賀とふざけて言っていたが、僕はこの表現が好きだった。社会の一部の人だけでなく、できるだけ多くの人を幸せにしたい。それは水平的な意味でも垂直的な意味でも、だ。全国津々浦々、天皇・貴族から農民まで。まさに万葉集。
それがどうやってできるかはまだ分からないけれど、きっとできたらいいなと思う。

休店ではなく閉店を選んだ理由

嬉しいことに、終わってしまうのは勿体無いので引き継ぎたいという言葉をいただいた。留学の間だけ休店という選択肢もあった。しかし僕は閉店を選んだ。
その理由は、僕にとって余白の居心地が良すぎるからだ。
僕にとっては余白は資本主義や競争から逃げ出した象徴の場所でもある。しかしこの一年で、僕は新しい挑戦をする勇気を手にした。それは嘘ではないが、しかし怖くないことはない。だから、ある一時期の僕を象徴する余白をここで終わらせることで、次のステージに進むんだぞと、自分に対して決意表明をしたかった。
もちろん余白を貫くゆとりの思想は今でも僕を深いところで形成している。だから僕は閉店をしても後悔はないのだ。楽しかった!

2022.10.17   慶應大学三田キャンパス書籍部開店前日の様子

可能な限り多くを生きる ー体験と経験についての量的質的考察

以下の二つの文章は並べてみると興味深い。

私たちは体験でできているのだ。体験の結実なのだ。体験する印象が増えれば増えるほど、私たちは人間として成長する。

ペール・アンデション『旅の効用』P236

経験の量は全く僕ら次第なのである。だからここではことを単純に考えなければならない。同じ年数を生きた二人の人間に対して、世界は常に同じ量の経験を提供する。それを意識化するのは受け取る僕らの側の問題だ。自分の生を、反抗を、自由を感じ取る、しかも可能な限り多量に感じ取る。これが生きるということ、しかも可能な限り多くを生きるということだ。

カミュ『シーシュポスの神話』P110

前提として、前者は旅行記から、後者は思想書から引用している。故に基盤とする理論の頑健性や文章の意図には違いがある。それを考慮に入れた上で、「可能な限り多くを生きる」ということについて考える。

世界との遭遇の回数(量) ×  意識化の精度(質)=  '生きる'ことのできる生

こんな式を立ててみた。すると前者の文章は第一の因子について、後者の文章は第二の因子についての文章であると捉えることが可能になる。
前者の文章は、僕達がたくさんの体験をすることを促す。旅は勿論、挑戦や環境の変化なども筆者の思考の範疇だろう。「挑戦をしなさい」「若いうちに経験を積みなさい」という言葉の含意はおそらくこちらの場合が多いのではないか。余白での経験もこちらに含まれると思っていた。
後者の文章は一風違った角度から僕達に体験への視力を与える。カミュの主張は、世界からその時々で僕達に提示された所与の「セカイ」像を、僕達がどれだけ余すことなく摂取できるのか、ここに生の濃度を左右するファクターがある、ということだと理解している。
この二者は相関関係にこそあるかもしれないが、少なくとも反比例の関係にはない。それが希望だ。両者を向上させることができる。生をより多く知覚するための方策を僕達は二つも持っている。
「個人の生はいかなるものであれ、本質的には無用なものだ」とカミュは言う。僕はまだこの主張を根元から理解できているわけではない。しかし、もしそうだとしたら、そうであるからこそ「可能な限り多くを生きる」ことは可能になり、価値を持つ。
これからの人生で、可能な限り世界と出会い、可能な限り意識から溢れ落ちる生を減らす。そして可能な限り多くを生きる。余白から脱線してしまったが、これが僕の最後の選手宣誓だ。

まずは一月から始まる異国の地での生活で、ここで宣言したような生の姿勢を不器用でも必死に実践したい。

謝辞

本の後書きには、往々にして関係者や家族などへの感謝が綴られる。僕はそれを読むのが好きだ。リアルならリアルなだけいい。エピソードが書かれていたら最高だ。遠くにあった筆者像が、急に人間味を帯びる感じが好き。人生で謝辞を書くことなんて珍しいと思うから、お涙頂戴と受け取られても構わないので、僕も僕なりの文章で感謝を伝えようと思う。ここに書けなかった人たちの中にも、感謝を伝えたい人はたくさんいる。その旨ご理解いただきたい。

Bookshop Travellerを営む和氣正幸氏(わきさん)には、感謝をしてもしきれない。『旅の効用』やBookshop Travellerという空間との出会いは、僕を変えてくれた。1月に駒場キャンパスで多賀と出店計画をしていたら盛り上がり、このまま突撃しようぜ!とアポ無しで店を訪れた大学生二人の話を聞いてくれて、棚を貸してくれた。インタビューやフェアの為に店を提供してくれた。いつも気さくで大学生にも対等に接してくれた。コーヒーを奢ってくれた(美味しかった)。そして何より、これから社会に出る僕が「働く・生きる」ことに希望を持てた理由の一つはわきさんの姿を見たからだった。

Bookshop Travellerの一箱店主の皆様は、誰もが輝いて見える存在だった。自分の箱に誇りと愛着を持っている人たちだった。書店業界のことなど何も知らない僕たちを温かく迎えてくれて、たくさんのことを教えてくれた。お一人ずつに会ってお礼を申し上げられないのが残念な限りだ。

足立店長をはじめとする東京大学駒場キャンパス生協書籍部の皆さん、山川店長をはじめとする慶應大学三田キャンパス生協書籍部の皆さんは、本屋余白と若者の接点を設けてくれた存在だ。僕は本屋余白の理想のお客さん(ペルソナ)を考える時、いつも大学一、二年生の僕自身を思い描いていた。だからこそ、東大や慶應で売れた時は、感慨深い気持ちになったものだった。もしこれを読んでいる東大生や慶應生がいたら、ぜひ書籍部へ行ってほしい。微力だが、そう書くことがせめてもの恩返しになればいいと願う。

本屋余白を応援してくれた全ての方に感謝を伝えたい。それはおすすめ、購入に限らず、ありとあらゆる形態での関わりにである。本屋余白が自己満足に終わらることなく、小さくとも価値を残したと僕達が信じられるのは、応援してくれた方々の存在のおかげでしかない。それだけでなく、皆さんの存在は、僕個人が世界に希望を持てた理由でもある。世界のあたたかさを知ることができて本当によかった。

たーこ、るこ、なっちゃんは、本屋余白のセカンドシーズンを共に走ってくれた。僕にできないことをできる人達であり、余白の拡大にはみんなの力が不可欠だった。同時に、コロナ禍で忘れていたチームで動くことの難しさと楽しさを体験できたのはみんなのおかげだ。最初は僕のやりたいことをサポートしてくれる3人の仲間たちだったけれど、時間が経つにつれて同じ方向に進む本屋余白の4人の仲間になっていったことが、僕はとても嬉しかった。みんながインスタのストーリーで「私の」やっている本屋って余白を紹介しているのを見た時に、小さくガッツポーズをしたのを思い出した。これからもよろしく。

多賀(陽平)には、2022年1月4日の夜の電話で「俺は本屋をやる」という僕の勝手な宣言を真面目に聞いてくれたことから感謝を始めたい。留学前の半年間という貴重な時間を、余白に費やしてくれた。余白に関係ないたくさんのことを議論した。ひと足先に留学先で頑張っている姿は、羨ましくもありかっこよくもあった。僕が東大を目指した理由は、「高校までの友人たちとはまた違うベクトルで、自分に刺激を与えてくれるような人と出会う」ためだった。この目的は達成されたと思う。村上春樹をおすすめしてくれたことにも感謝を。これからもよろしく。

2022.12.10   Bookshop Travellerでのフェアの様子

おわりに

探すのをやめないこと。旅をやめないこと、なぜなら広い世界が待っているからだ。世界が小さくなることは無い。

ペール・アンデション『旅の効用』

駄文&長文をここまで読んでくださりありがとうございました。そろそろ終わりにします。

本屋余白は閉店しますが、本屋余白として過ごしたこの期間は、一生忘れないような予感がします。

僕は今、新しい旅の始まりにいます。

厳しくもあたたかいこの世界に向かって、一歩を踏み出す勇気を、今の僕は持っています。

本屋余白代表 小澤

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?