『ドン・キホーテ』 – 日めくり文庫本【9月】
【9月29日】
ドン・キホーテは亭主に、忠告されたことはすべてそのとおりに実行しようと約束した。かくして、宿の片側に広がる大きな庭で、直ちに甲冑の不寝番が実行に移されることになった。ドン・キホーテは甲冑一式を持ち出して、庭の井戸のそばにある石の水甕の上に置くと、盾に腕をとおし、槍をかいこんで、意気揚々と水甕の前を行きつ戻りつしはじめた。そして彼がこうして庭を歩きまわるのと時を同じくして、夜の帳がおりはじめたのである。
亭主は宿屋に泊り合わせたすべての人に、客人の一風変わった狂気と甲冑の不寝番のこと、さらには彼が待ちこがれている騎士叙任式のことについて話して聞かせた。いかにも奇妙きてれつな狂態に驚きあきれた一同は、彼の挙動を遠巻きにうかがおうとして窓辺に寄った。すると当のドン・キホーテは悠揚迫らぬ物腰で、水甕のまわりを歩きまわっていたが、時として立ちどまっては、槍を杖にして身をもたせかけたまま、甲冑にじっと目を注ぎ、長いあいだそれを見すえているのだった。すでに日はとっぷり暮れていた。しかし、月がその光の貸し主と競うほどにも明るく、煌々と輝いていたので、新参の騎士の一挙手一投足は、皆の目に手にとるようによく見えたのである。そのときたまたま、泊り客出会った馬方のひとりが、自分の騾馬に水を飲ませようという気になったのであるが、そのためには庭に出て、水甕の上に置いてあるドン・キホーテの甲冑を取りのける必要があった。そしてもちろん、馬方はそうしようとして甲冑に近づいたものだから、それを見たドン・キホーテは、大声を張りあげてこう言った——
「あいや、そなたが何者かは知らぬが、かつて太刀を佩きし最も勇敢な遍歴の騎士の甲冑に手をかけんとする大胆にして無謀なる騎士よ! 為さんとすることに気をつけるのじゃ。不埒な行為の代償として命を落としたくなくば、甲冑に指一本触れる出ないぞ!」
しかし馬方はこの台詞を気にもかけなかった(もっとも、気にかけたほうがよかったであろう、そうすればおのが身の安全も気にかけることになったのだから)。それどころか、甲冑についている革紐をひっつかむと、委細かまわず、力まかせにそれを遠くへ放り投げてしまったのである。これを見たドン・キホーテは、視線を天の一点にすえると、察するところ、どうやら思い姫ドゥルシネーアに願を懸けているらしく、こんなことを言った——
「わが姫よ、あなたの僕たるこの胸に初めて加えられし屈辱において、なにとぞお力を貸したまえ。わが最初の危機に際し、あなたの庇護を惜しむことなかれ。」
「第三章 ドン・キホーテが騎士に叙された愉快な儀式について」より
——セルバンテス『ドン・キホーテ 前篇(一)』(岩波文庫,1975年)74 – 76ページ
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