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『ゼーノの意識』 – 日めくり文庫本【12月】

【12月19日】

2 序章

 私の幼年期を振り返るだって? あれから五十年以上の歳月が流れ、老眼になった私の目に宿る光が、幾多の障害に防げられることがなければ、遠いその時代まで見通すことができるかもしれない。高く険しい山のように立ちはだかるのは、私が過ごしてきた年月と時間だ。
 医師は、あまり遠い時代までむりに思い出そうとしないように進言した。最近のことがらでも、彼らにとってはそれなりに貴重であり、とくに昨晩の空想と夢が大切田という。だが、多少は手順を踏む必要があるだろうし、ゼロから始めるためにも、私は医師と別れるやいなや、精神分析の論文を買って読んだ。彼がまもなくトリエステを発って長いこと留守にするので、ただたんに、その仕事を容易にしたかったのだ。論文を理解するのはむずかしくはなかったが、とても退屈だった。
 昼食後、私は手に鉛筆と紙きれをもって、クラブチェアにゆったりと体を横たえる。私は頭のなかから一切の緊張を排除したので、顔にはおだやかな表情が浮かんでいる。私の思考は私自身から切り離されているかのようだ。私にはそれが見える。上昇し、下降する……、しかしそれ以上の活動はできない。それは実際は私の考えていることであり、思考の実体を明らかにする義務があることを喚起するために、私は鉛筆をつかむ。すると私の眉間にしわが寄る。なぜなら、すべての言葉は多くの文字で成り立っており、現在が荒々しく立ち上がって過去をくもらせるからである。
 昨日、私は深い放心状態に入ろうと試みた。そのような実験ののち、私はとても深い眠りに落ちた。その結果得られたのは、大きな安らぎと、睡眠中に何か重要なものを見たいという感覚だけだった。だがそれがなんだったか忘れてしまい、二度と思い出せなかった。

——ズヴェーヴォ『ゼーノの意識』(岩波文庫,2021年)10 – 11ページ


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