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萩原朔太郎『猫町』 メタフィジック篇 – 索引で読む文学作品

ふと思いあたって、萩原朔太郎の『猫町』を読んでみました。
思いあたったことはまったくの的外れだったのですが、はじめて読んだときの印象とはずいぶん違った読後感になったのでまとめてみます。

ひとまず、「索引」をつくってみました。

『猫町』は「散文詩風な小説(ロマン)」と題されており、短編小説としても比較的に文章量の少ないほうと思われます。そんな作品に索引など必要ないと思われるかもしれないのですが、いざピックアップしてみると、どのような「読み」をしているのか、どんな「読み」ができるのかが浮き上がって見えてくるようで、やはり索引づくりは面白いです。

索引づくり

前回の夏目漱石『草枕』索引づくり編と同様に、ベーシックな方法でピックアップしてみました。

・項目は、人名と作品名
 本文だけでなく、注釈に記載されているものも含みます。
・機械的に抽出し、五十音順に並べます
 ()内は本文での表記で、[]内は章番号です。

太字は本文中に記載されている場合ですが、今回読んだ文庫本には注釈などはありませんでした。

それでは、萩原朔太郎『猫町』の索引をご覧ください。

索引 – 人名

アルトゥル・ショーペンハウアー(ショーペンハウエル) [エピグラフ]
ホレイショー(ホーレシオ) [2]
荘子 [3]

項目も少ないので出現順としています。
なお、底本としたのは手元にあった次の文庫本です。
底本:「猫町 他十七篇」岩波文庫
   1995年5月16日 第1刷発行
   2013年7月16日 第19刷発行

索引で読む『猫町』

萩原朔太郎『猫町』には、巻頭にエピグラフが置かれています。
ショーペンハウアーのどの著作からの引用なのかはまだ調べきれていないのですが、次のようなものです。

蠅を叩つぶしたところで、蠅の「物そのもの」は死にはしない。単に蠅の現象をつぶしたばかりだ。――
                        ショウペンハウエル。

プラトンは、「洞窟の比喩」を用いて、われわれが現実に見ているものは「実体」(イデア、物そのもの)の「影」に過ぎないとしました。
カントは、『純粋理性批判』において、理性の持つ認識能力が及ばないもの、現象の背後にあると仮定せざるを得ないものを「物自体(Ding an sich)」と呼んでいます。

ショーペンハウアーは、最初の哲学の師となるG・E・シュルツェよりこのの二人、プラトンとカントを今後の研究の目標とするよう忠告を受けたそうです。そして、主著『意志と表象としての世界』において、「すべての表象、すなわちすべての客観は、現象である。しかしひとり意志のみが、物自体である。」としています。
『猫町』のエピグラフは、蠅を叩き潰したとしても、認識できているのは蠅の「表象」に過ぎず、認識することのできない蠅の「物自体」は叩き潰してはいない、ということでしょう。「物自体」がどんなものであるかは不可知であり、因果律に従うこともありません。

章1の後半には、次のような文章があります。

このように一つの物が、視線の方角を換えることで、二つの別々の面を持ってること。同じ一つの現象が、その隠された「秘密の裏側」を持ってるということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。私は昔子供の時、壁にかけた額の絵を見て、いつも熱心に考え続けた。いったいこの額の景色の裏側には、どんな世界が秘密に隠されているのだろうと。私は幾度か額をはずし、油絵の裏側を覗いたりした。そしてこの子供の疑問は、大人になった今日でも、長く私の解きがたい謎になってる。


次のホレイショーは、本文の前後からみて、シェイクスピアの『ハムレット』に登場する、ハムレットの親友のことと思われます。
第一幕 第五場 「防壁の上、別の場所」で、ハムレットがホレイショーに語る台詞です。

「ホレイショー、この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」
—— ウィリアム・シェイクスピア、福田恆存 訳『ハムレット』(新潮文庫、1991年改版)

こちらでも、われわれの認識の及ばない、超越的な原理(形而上学の伝統的な主題である神、精神、自由)を探究する哲学者に触れています。

しかし宇宙の間には、人間の知らない数々の秘密がある。ホレーシオが言うように、理智は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲学者は、彼らの窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでる。詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。


最後の荘子は、次のように「胡蝶の夢」の説話と併せて登場します。

支那の哲人荘子は、かつて夢に胡蝶となり、醒めて自ら怪しみ言った。夢の胡蝶が自分であるか、今の自分が自分であるかと。

ここでもやはり、形而上学的な「謎」を問いかけています。

この一つの古い謎は、千古にわたってだれも解けない。錯覚された宇宙は、狐に化かされた人が見るのか。理智の常識する目が見るのか。そもそも形而上の実在世界は、景色の裏側にあるのか表にあるのか。だれもまた、おそらくこの謎を解答できない。

読み終えて

はじめて読んだときの印象は、主人公の旅にいたる心象や訪れた街並みのイメージといった、茫漠とした「残像」のようなものでしかなかったのですが、索引をつくってその項目と併せて読んでみると、萩原朔太郎『猫町』の作品全体の構造をようやく俯瞰できたような、そんな印象に大きく変わりました。

もうひとつ気がついたことは、夏目漱石の『草枕』との共通点がいくつかみられることです。
・東京から地方の温泉場への旅
・峠の山道を歩いて越える
・祟り/憑依の言いつたえ
・夢についての挿話
・シェイクスピア『ハムレット』

ほかにも、間接的には藤村操や『ウパニシャッド』、さらに連想力を豊かにすれば「鏡像」や「ピクチャレスク」などといったキーワードも表れてくるように思います。

最後までご覧いただき、ありがとうございます。
いかがだったでしょうか? ご覧いただいた方にも、萩原朔太郎『猫町』を読んでいただき、新しい読書体験につながれば嬉しいです。

/三郎左

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