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『暁の寺』 – 日めくり文庫本【9月】

【9月21日】

「すべての芸術は夕焼ですね」と菱川は言った。そして一つの説を開陳するときの常で、やや間を置いて、聴手の反応を窺った。本多にはその饒舌よりも、この沈黙の間のほうが、よほどうるさく感じられた。
 タイ人と見紛う日灼けの頬が、タイ人の持たぬ粉っぽいやつれた肌と重複しているその横顔を、菱川は対岸ののこんの光輝に映えさせながら、くりかえして言った。
「芸術というのは巨大な夕焼けです。一時代のすべてのいものの燔祭はんさいです。さしも永いあいだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費らんぴによって台無しにされ、永久につづくと思われた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に立ちふさがって、あらゆる人間的営為を徒爾あだごとにしてしまうのです。あの夕焼の花やかさ、夕焼雲のきちがいじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などというたわごと[#「たわごと」に傍点]も忽ち色褪せてしまいます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒にちています。何がはじまったのか? 何もはじまりはしない。ただ、終わるだけです。
 そこには本質的なものは何一つありません。なるほど夜には本質がある。それは宇宙的な本質で、死と無機的な存在そのものだ。昼にも本質がある。人間的なものすべては昼に属しているのです。
 夕焼の本質などというものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光りと色との、無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などという色の椀飯おうばん振舞をすることはめったにないのです。夕焼雲はあらゆる左右相称シンメトリーに対する侮蔑ですが、こういう秩序の破壊は、もっと根本的なものの破壊と結びついているのです。もし昼間の悠々たる白い雲が、道徳的な気高さの比喩になるなら、道徳に色などがついていてよいものでしょうか?
 芸術はそれぞれの時代の最大の終末観を、何者よりも早く予見し、準備し、身を以て実現します。そこには、美食と美酒、美形と美衣、およそその時代の人間が考えつくかぎりの奢侈しゃしが煮詰まっています。そういうものすべては、形式を待望していたのです。僅かな時間に人間の生活を悉く寇掠こうりゃくし席巻する形式を。それが夕焼ではありませんか。そして何のために? 実に何のためでもありません。
 もっと微妙なもの、もっとも枝葉末節の気むずかしい美的判断が、(私はあの一つのオレンジ色の雲のへりの、なんともいえない芳醇な曲線のことを言っているのですが)、大きな天空の普遍性と関わり合い、もっとも内面的なものが色めいて露わになって外面性と結びつくのが夕焼です。
 すなわち夕焼は表現します。表現だけが夕焼の機能です。
 人間のほんのかすかな羞恥や、喜びや、怒りや、不快が、天空的規模の物になること。人間の内臓の常は見えない色彩が、この大手術によって、空いちめんにひろげられ外面化されること。もっとも些細なやさしさや慇懃ギャラントリー世界苦ヴェルトシュメルツと結びつき、はては、苦悩そのものがつかのまのオルギエになるのです。人々が昼のあいだ頑なに抱いていた無数の小さな理論が、天空の大きな感情の爆発、その花々しい感情の放恣ほうしに巻き込まれ、人々はあらゆる体系の無効をさとる。つまりそれは表現されてしまい、……十数分間つづき、……それから終わるのです。
 夕焼は迅速だ。それは飛翔の性質を持っています。夕焼はともすると、この世界の翼なんですね。花蜜かみつを吸おうとして羽搏はばたくあいだだけ虹色に閃めく蜂雀はちすずめの翼のように、世界は飛翔の可能性をちらと垣間見せ、夕焼の下の物象はみな、陶酔と恍惚のうちに飛び交わし、……そして地に落ちて死んでしまいます」

「第一部」一より

——三島由紀夫『暁の寺―豊饒の海・第三巻―』(新潮文庫,2002年改版)16 – 18ページ


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