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『北回帰線』 – 日めくり文庫本【12月】
【12月26日】
ぼくはこの断片的なノートをすら書いているひまがないほど、あわただしく、はげしく、生きることを強いられている。電話のあと一人の紳士とその細君とが訪ねてきた。ぼくは取引がすむまで二階へあがって横になっていた。寝ながら今度はどこへ移ろうかと考えていた。男色野郎のベッドに戻って、一晩じゅうパン屑を足のさきで蹴って輾転反側するなんてのは、まっぴらごめんだ。あのいたずら好きの父なし子め! 男色野郎より悪いものがあるとすれば、それは守銭奴だ。臆病な、いつも慄えてい小ぎたない男色漢。いつか——たぶん三月十八日には、いや、五月の二十五日には確実に——一文無しになるだろうと絶えずびくびくしながら生きている奴だ。ミルクも砂糖も使わないコーヒー。バタなしのパン、肉汁なしの肉、さもなければ全然肉ぬき。あれもなし、これもなし! 不潔で、けちな守銭奴め! ある日、化粧箪笥の引出しをあけてみて、短靴下のなかに金をかくしてあるのを見つけたことがある。二千フランを越える現金——それとまだ現金に替えてない小切手と。それさえも、もしぼくもベレ帽のなかにコーヒー滓を入れたり、床に塵芥を散らばしたりしないなら——コールド・クリームの壜や、脂ででべとべとになったタオルや、いつも詰まっている流しのことは言わずもがなだ——ぼくはそう大して気にかけはしなかったろう。まったくの話がこの小ぎたない父なし子野郎は——コロン水でもぶっかけているときのほかは——じつにいやな匂いがするのだ。奴の耳もきたないし、眼もきたない。尻もきたない。奴は関節病で、喘息やみで、虱たかりで、せせこましくて、異常者だ。奴が、もしまともな朝食さえおれにふるまってくれたら、おれだって、どんなことでも忘れてやれたろうに! だがよごれた短靴下のなかに二千フランもかくしておいて、清潔なシャツを着ることも、わずかなバタをパンに塗ることも拒むなんて、そんな野郎は、ただの男色漢でもなければ、ただの守銭奴ですらもない——まさしく低能だ!
——ヘンリ・ミラー 『北回帰線』(新潮文庫,2005年改版)31 – 32ページ
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