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『闇の奥』 – 日めくり文庫本【12月】

【12月3日】

 マーロウは言葉を切った。いくつもの灯りが河面を滑っていった。小さな緑色の灯り、赤い灯り、白い灯り。灯りが灯りを追いかけ、追いつき、一つになり、すれ違い——それからゆっくりと、あるいは早足で、別れていく。大いなる都市の河は眠らず、夜が更けても交通を絶やさない。私たちは話の続きを辛抱強く待った——満ち潮が終わるまでは何もすることがないのである。ところがマーロウは随分長いあいだ黙り込んでから、ためらいがちに話を再開した。「君らも憶えているだろうけど、俺もしばらくのあいだ河船の船長をやったことがある」それを聴いた私たちは、どうやら潮が引き始めるまで、例によってマーロウの結論のない体験談を一つ拝聴する運命が定まったらしいと悟った。
「俺としてはなるべく俺個人の話で君らをうんざりさせたくない」とマーロウは続けたが、今の言葉には、聴き手が何を一番聴きたがっているかをわかっていないという多くの話し手の弱点が表れていた。「でもこの体験が俺に与えた影響を理解してもらうには、俺がどういうわけであそこへ出かけ、何を見たか、どんな風にあの河をさかのぼって、あの場所へ行き、あの人物に会ったかを、知ってもらう必要があるんだ。あそこは船で行ける一番遠い地点であり、俺にとっては最大の人生経験を得た場所だった。それは俺のすべてに——俺の物の考え方に——一種の光を投げかけてくるような気がした。それはひどくくらい——情けない経験でもあって——素晴らしいとはとても言えず——あまりはっきりとした経験でもなかった。そう、あまりはっきりとした経験じゃない。それでも、一種の光を投げかけてくる経験のように思えるんだ。

——コンラッド『闇の奥』(光文社古典新訳文庫,2009年)19 – 20ページ


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