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#11 シンガーソングライター・高野寛「文化系兄さんの30年」(2020.1.17&20)

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すっかりサボり癖が付いてしまい2020年初議事録です。いけません。宿題は溜めると手を付けるきっかけをなくす――みなさん憶えておきましょう!

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2020年、最初の会議相手は今年デビュー30周年を迎えた高野寛さんでした。あ、ホントーBOYSシール持ってくれてる。優しい~、高野さん!

まあ、高野さんといえば年配の方々にとってはアレとアレですよね。そう、コレとコレ。

もしくは、コレ。

あと知ってる人は知っている。NHKで司会もやっていた高野さん。

個人的には高野さんって「音楽や文学なんかに詳しいとなりのお兄さん」って感じがするんだけど、きっとこのへんのイメージがあるせいですかね。文化系の兄さん代表。永遠のPOP兄ちゃん。 

まずそんな高野さんのキャリアを30数年前までリバース。そもそも高野青年は何を目指していたのでしょう?

大学のときは漠然とギタリストになりたいと思いながらバンドをやってて、その一方で宅録もやってたんです。デビューのきっかけはYMOの高橋幸宏さんがやってたオーディションに応募したこと。幸宏さんは僕のデモテープを聴いて「声に特徴あるから歌ってみたら」って言ってくれたんです。最初はギタリスト志望だったけど、「自分のなりたいもの」と「自分が向いてるもの」ってイコールじゃなかったりするじゃないですか。いち早く僕のシンガーソングライターとしてのポテンシャルに気付いてくれたのが幸宏さんだったんです

「なりたいもの=ギタリスト」だったが「向いてるんじゃない?=歌」というところから、シンガーソングライターの世界に足を踏み入れた高野さん。当時は日本語詞も書いたことなかったとか。しかしデビュー3年目にして前出の「虹の都へ」&「ベステンダンク」(トッド・ラングレン・プロデュース~~~)が大ヒット。やった~!!!……じゃなかったんですか?

予想外のヒットだったので葛藤があった時期があったのは確かです。特に「ベステンダンク」はヒットの渦中に作った曲で。だから僕的にはビートルズの「Help!」に近い感覚というか……気持ち的にきつくて。そんな時期なのに「ベステンダンク」(ドイツ語で「ありがとう」の意)って反転したタイトルをつけてしまうのが自分の性格でもあって(苦笑)……ただ、面白いことに、いま若い人の前で演奏すると同時期の「虹の都へ」より「ベステンダンク」の方が断然ウケがいいんです。それはこの曲に自分の魂の叫びみたいなものがプリントされてるからでしょうね

ヒット曲「ベステンダンク」に込められた意外な苦しみ。そして苦しい時期に「ありがとう」という曲を書いてしまう生来のヒネクレ者精神(さすがYMOチルドレン)。

ただ、葛藤はしてたけど別に売れることに背を向けていたわけじゃなくて。一時期はスタッフと武道館ワンマンを目標に頑張った時期もあったんです。でも時代的にかみ合わなくて。で、直後に「渋谷系」が台頭してきて。僕は渋谷系のDJ文化、サンプリング文化にもうまく入り込めなかったんです。それは後で考えると、自分がYMOフリークってところが大きかったと思うんですよ。YMO的なものは90年代は再評価されませんでしたから

一時は武道館を目指していた高野さん。しかし渋谷系には早すぎ、音楽への向き合い方にも迷い、次第に日の当たる場所から遠ざかっていく。替わりに増えたのはプロデューサー、ギタリスト、アレンジャー、曲提供などの裏方仕事。もともとコツコツ系の人だったのだ。

90年代後半からはインディペンデントで自分のやりたいようにやっていくことにしたんです。J-POPのフィールドでずっとやっていくやり方もあったけど……正直90年代半ばは「音楽つまんないな」って思った瞬間があったんです。それが自分的にすごいショックで。「J-POPのフィールドにい続けるためにこういう感覚を味わい続けてたら自分が死ぬな」ってことを痛感したんです。結局J-POPアーティストとしての立ち位置を続けられなかったんですよ

ここ、好きなことを仕事にした者の苦しみが表れてると思うんです。どこまで好きなことをセルアウトできるのか? どこまで譲れて、どこから譲れないのか? 器用な方が幸せか? いやいや、長い目で見るとどうなのか??……同じ「好き」でも変わり続ける向き合い方。高野さんの30年間は、そのバランスについて悩み続けた30年間でもあったような気がするんです(おそらく今も悩み中)。

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さて、ここで話題が変わります。ボントーBOYSも今、こうしてnoteという媒体で議事録発表してますが、高野さんはnoteの先駆者。なんとフォロワー数17,434人(2020.3.6現在)。ウチらの500倍ですよ!

で、またこのクオリティがスゴイっちゅうか。日記はもちろん、動画や音源を上げたり、写真をアップしたり、はては自分でデビュー30周年の自伝エッセイ「ずっと音だけを追いかけてきた」を連載したりと、ものすごい多才。ものすごいマメ。質量ともにとんでもないんです!

好きだからいろいろやっちゃうけど、音楽以外は中途半端ですよ。ただ、90年代はいろいろやってても、それをひとつにまとめることができなくて。たとえば好きで写真を撮っても、CDブックレットに載せるくらいしか発表の場がなかったんです。でもnoteは作ったものを全部ブチ込めるので、自分の音楽以外を全部発表できる場所を手に入れた感じです

だってMVも自分で作っちゃうんですよ。これも!(ここから最新作『City Folklore』収録曲ね)

これも絵も大半は高野さんが描いてるんですよ!(これも最新作収録曲)

さらに20年前からホームページも自作。音楽家になる前はエンジニアになりたいと思うくらい機材いじりも好き、パソコン大好き……結局そーゆー人なんです。高野さんって何でもやりたい人なんです!(で、できちゃう)

僕は大阪芸大の芸術計画学科を卒業してて、芸術計画学科は文章も絵も音響もひと通り全部学ぶ学校で。だからデッサンもやったし、楽典も習ったし、エンジニアリングもかじったし、映像の授業もあったし……いま思うと自分に向いてたと思いますね。だからみなさん、キャリアを重ねていくと時代とズレてしまったりする場合もあるかもしれないけど、僕の場合はインターネットがこれだけ普及するとありがたい感じなんです。今の若い人はネットから出てくるのが主流で、そういう人たちにも普通に刺激を受けてますね

ということで、高野さん、いま注目されてるSASUKE、KEEPON、崎山蒼志……といった10代ミュージシャンともダイレクトに仲良し中。

いつも頑張って自分をアップデートしないといけないんだけど、それでも今は希望を感じます

という流れから、話は第3の展開へ。「デビュー以降の30年間で音楽の世界も相当変わったんじゃないですか?」。

確かに。僕のデビュー時はアナログLPとカセットが同時発売。翌年が平成元年でアナログ廃止、CDのみのリリースに。そこから30年たった令和の今はサブスクリプションが主流……時代もメディアも変わりましたよ

30年間サバイブしてきた高野さんが見る、今の音楽シーンとは?

どのミュージシャンも10年前、20年前に比べライブの本数が圧倒的に増えて、今はサバイバル状態ですね。同じ日に同じ町で近いジャンルのアーティストがかち合うこともあるし。それに合わせて僕もギター一本持って各地で歌うライブ活動が増えてきました。あと、いまTwitterとかに自分の部屋のプレイ映像をアップしてる若い人が多いけど、あれってごまかしがきかないから、その人がどれだけのポテンシャルがあるかすぐわかるんです。CDやテレビの時代は口パクや差し替え含め、いくらでも「お化粧」ができたけど、今は実力の世界になってきた。それって1940~50年代に戻った感覚というか。1960年代のビートルズ以降、レコードはスタジオであれこれ技術を駆使して作った「作品」になったけど、今はひと回りしてそれ以前の「記録(=レコード)」に戻ってきたのかもしれません

CDがなくなりライブが全盛に、個々人がSNSを使って情報を発信――そんな令和の音楽環境を高野さんは自分に合ってるという。いいときも悪いときも潜り抜けて、プロ31年目の高野さんはとても自由そうである。

いまネットがこれだけ普及してると、もうどこに住んでるかはハンディキャップにならないと思うんです。だから東京以外の場所でものを作ることに僕自身すごくあこがれがあります。僕はもう10年以上ラップトップのパソコンでしか作業してなくて。どこででも作業できるように、家に据え置きのパソコンは置いてないんです。そういう意味でもありがたい時代だし、みんなも気にせず好きなことをやればいいんじゃないかな

最後にこちら、高野さんデビュー30周年記念オリジナルアルバム『City Folklore』。プロデュースドバイ冨田ラボでナウオンセール。よいぞ~。

あの頃、僕らに音楽やカルチャーの楽しさを教えてくれた「となりの文化系お兄さん」は今も健在。なんでしょう、30年経っても変わらないこのお兄さんっぷりは。変わらぬ体型? ジェントルな物腰? YMOフォーエバーな創作魂?……今後も「弟&妹」として付いていきますYO!

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201911.29@HFM

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