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蛮行に震える君よ〜ルイ・マル監督『さよなら子供たち』(1987)

 ルイ・マル監督をすっかり忘れていた。

 出世作『死刑台のエレベーター』(1958、以下『死刑台〜』)は、かつてはビデオやレーザーディスクで繰り返し視聴。マイルス・デイビスの同名のLPレコードは、すり減るほど聴いたものだ。ノエル・カレフの原作(1956)もよかった。こういう体験は、80年代から90年代までのこと。

 しかし、その斬新さに驚き、何度も見た『死刑台〜』を忘れてしまい、さらに『さよなら子供たち』(1987、以下『さよなら〜』)は作品タイトルこそ記憶にとどめていたものの、監督がルイ・マルであったことを失念してしまっていたのだった。

 振り返ると、『さよなら〜』は、90年代以降『死刑台〜』に替わって、当方のルイ・マル監督ベスト作品になり、DVDで数年に一度見返すようになった。ただ、ここ5年ほどは盤は棚に埋もれていた。情け無いことに、監督が誰だったかを一瞬思い出せなくなるまで放置していたということ。たまたまWOWOWが流してくれ、そういえばルイ・マルだったな、という感じ。

 録画ながら、画質はDVDより向上。WOWOWはおそらくブルーレイ放映。字幕訳文は、DVDの方が生き生きして、当方には好ましい。

 舞台はカトリックの寄宿制の学校である。時代背景はナチ・占領下のフランス。ユダヤ人迫害がメイン・テーマである。テーマ自体は、目新しくはないが、決して忘れ去ってはならない歴史。古くはジョージ・スティーブンス監督『アンネの日記』(1959)。80年代以降の、アラン・J・パクラ監督『ソフィーの選択』(1982)やスティーブン・スピルバーグ監督『シンドラーのリスト』(1993)は映画だけでなく、原作も読む価値がある。ロマン・ポランスキー監督にも『戦場のピアニスト』(2002)がある。占領下フランスという設定に共通点があるものでは、アラン・レネ監督『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959)が思い当たる。もちろん、ホロコースト関係だけでも、他にたくさんある。

 さて、『さよなら〜』が他の著名作品と一線を画すところはどこか。

 評論などでしばしば目にするのは、この映画に戦闘や殺戮のシーンがないという指摘。確かに、その通り。静かなのである。暴力や流血による恐怖の演出は避けられている。ルイ・マルの優れた提示の仕方であり、これは他の諸作品とは違うアプローチとなっている。

 当方が、他作品に比し奥深いと感じるのは、カトリックとユダヤ民族の断絶を織り込んでいるところである。それは、聖体拝領のシーンで校長がユダヤ人少年・ボネにホスチア(口に入れる白い物)を与えなかった所作に端的に現れている。

 このシーンの解釈は分かれるのではないか。校長の行為は、差別といった類ではない。彼は、ユダヤの子供たちを命がけで守ろうとする極めて良心的でキリスト教の理想を求める人物である。しかし、擁護者であるにもかかわらず、宗教儀式ではボネ少年に対して特別な振る舞いに及んだ。他方、おそらくはユダヤ教徒である少年は、ホスチアを受け入れようと口を開けて待っていた。緊張をはらむ場面である。ルイ・マルは、キリスト教とユダヤ人との宥和が容易ならざることを示唆している。

 ドイツ軍兵士が、主人公のフランス人少年・ジュリアンとボネに「我々もカトリックだ」と語りかける場面がある。ユダヤ人・ボネの胸中を、寒い風が吹き抜けたことは間違いない。

 学校という小世界にも、俗世同様「ユダ」が登場する。いや、学校が俗世間の一部分なのである。「ユダ」の裏切りは一見、聖書的図式ではないか。この「ユダ」は足が不自由で心も弱い人物として描かれている。そして、行いの卑しさの表し方はステレオ・タイプにも見える。しかし、この作品の背景を考慮すると、やや違った視野が開けてくる。すなわち、ナチズムの時代においても、キリスト教世界においても、裏切り者は常に存在するということ。どちらにも帰属できない中途半端な人間が、あらゆる時代、いかなるシチュエーションにも出現する。

 本作品のラストシーンは、残酷ではあるが美しい。それにも増して、まぶしく映るのは、ボネ少年が女性音楽教師とピアノを練習するシーンである。ルイ・マルがなぜ、これを挿入したかははっきり分からないが、こうした幸福なひとときが永遠に続けばよいのに、と思わせる数分間である。ボネと女性教師をガラス越しに見つめるジュリアンには、嫉妬の感情さえ芽生えたのではないか。そして、幸せな時間であるにもかかわらず、奏でられる旋律は悲哀を帯びる。

 ところで、キリスト教世界とユダヤ人という構図で想起されるのは、カール・マルクスの論文『ユダヤ人問題に寄せて』(1843)である。これは40年前、大学のゼミナール外の活動である自主ゼミで輪読し、今でも時々読み返すことがある。マルクスは、ユダヤ人解放についてキリスト教国家を前提としたユダヤ教の廃棄に反対する。あくまで、ユダヤ人は公民として解放されるべきであると主張する。

 しかし、「言うは易く、行うは難し」である。

 被抑圧民族を公民として解放することは、現代においても極めて困難な課題である。かつてのキリスト教国家にとって替わって、今抑圧側に回っている国家が、民主主義を標榜していることさえ珍しくないのだ。ナチスの時代もまた、すでに現代国家の世紀であったのである。

 映画では、司祭たる校長が生徒たちの父兄に対して、富める者を非難するシーンが。

「物資的豊かさは魂を堕落させる」

「富は人間を不誠実で軽蔑すべき存在に変える」

「持たざる者の怒りは尊大な宴に向けられる」

 校長は聖職者であり、マルクス主義者ではない。しかしながら、全体主義、レイシズムに抗せんがため、コミュニズムに接近するキリスト教徒が存在したことを匂わせる場面である。

 ジュリアンは、将来司祭になって、コンゴで布教活動をしたいと母親に告げる。それは、葛藤に苦しみ始めた彼なりのソリューションだった。

 悲しいかな、幕切れは突然訪れる。ボネとジュリアンが最期に交わした愛の証は書物であった。ジュリアンが手渡したのは、古代ペルシアの性愛の物語。ここに、蛮行と断絶を乗り超える一縷の光が見えた。




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