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新卒採用から10ヶ月で転職、私の履歴書は『汚れた』のか

社会人5年目が過ぎ去ろうとしている今日。
現在勤務している会社は大学卒業から3社目になる。タイトルにある通り、新卒で採用された1社目の会社(以下A社とする)は1年と経たず辞めてしまった。
#転職してよかったこと ―このタグを見つけたとき、「履歴書が汚れるから辞めるな」という上司の引き止め文句を思い出した。私の経歴は本当に傷モノになってしまったのだろうか。A社で過ごした10か月を振り返りながら、今の答えを出してみたい。

・“就職活動”を終わらせたい!最短ルートをゆく

『就職活動』が死ぬほど嫌だった私は、「早く終わらせたい」の一心で狭く浅く突っ走っていた。周りの学生がインターンや合同説明会に積極的に参加する中、私は「Uターン一択」の戦法を取る。
将来的に地元に生活基盤をおきたいと思っていたし、当時、県をあげてUターンIターンの受け入れを積極的に行なっていた。様々なイベントがあり、それに参加して何社か受ければどこかには引っかかるだろうと踏んだのである。
採用が決まったA社は、地元の土産菓子を看板商品とする製菓会社だった。かなり久しぶりに新卒採用枠を設け、経営コンサルタント(以下B社)の意見を積極的に取り入れながら社内改革がおこなわれている最中だという。そこで、改革を後押しする「フレッシュな存在」が求められていた。緊張しながらもなんとか内定まで進み、最初の懇親会でのこと。経営コンサルタントである〈顧問〉や〈先生〉と呼ばれる人たちがこんな話をしていた。

「社会人になれば、人生の多くの時間を仕事に費やすことになる。その時間が苦痛なのはもったいない。仕事を好きになって、趣味の延長線にしてしまえば、プライベートもより充実したものになる。我々は今仕事が楽しくて仕方ない。みんなでそうなりましょう。」

現代社会では賛否がありそうな発言ではあるが、当時の私は(なるほど…!)と感心したものだ。お菓子も地元も好きだし、ここで頑張って結果を出せば人生バラ色だ!本気でそんな風に考えた。モチベーションは爆上がりである。(補足として…上記の発言・考え方自体を否定はしないが、私はこのB社との関りを経て見事〈コンサルタントアレルギー〉になってしまった。それについてはまた機会があれば書いてみたい。今となってはB社から学んだことも多いのは事実である。)

・内定者課題と研修期間

A社の同期は8人だった。
内定が決まってからのアフターフォローとして、入社式でのプレゼンと余興のミッションが課せられた。2つの班に分かれ、
①実在する店舗の改革案をまとめて発表すること、
②発表後の懇親会で自己紹介を「面白く」すること。
それを社長と管理職であるB社の人間が審査するイベントである。プレゼンをするにあたって、真剣にA社の商品情報やコンセプトなど把握しようと積極的に情報収集や話し合いをおこなった。厳密にいうとA社での〈初仕事〉はこれだったかもしれない。余興では、一方の班は当時流行していたブルゾンちえみのネタをオマージュし、私たちの班は氣志團のOne Night Carnivalの替え歌をつくり踊った。(幸い私はこういった出し物が嫌いではなかったため、ノリノリでやった。)
このミッションのおかげて、入社前から同期との仲はかなり深まったと思っている。同期については、最後の項目でもふれたい。

入社後、配属が決まるまでの3カ月は研修期間として過ごした。B社が制作したビジネス本が教科書として配られ、感想文を提出するのも課題の一つである。今回このnoteを書くにあたり、その感想文を読み返してみた。我ながら「よくできた」感想文だなぁ、と少し笑ってしまう。『はやく自分にとってのやりがいを見つけ、「仕事を遊びに」して自分と他人のために働きたい』社会人1年目の、ピカピカの感想文だった。
あとは、経営理念と経営方針、5Sの定義など社内での必要事項はひたすら暗唱した。全員全問正解するまで確認テストを受けた。包装やリボンかけもここで身に着けた。これも、制限時間内に全員出来るまで頑張った。今思えばなかなかの体育会系だったと思う。当時は、手厚い研修メニューで有難いと思い必死で学んだ。そして3カ月後、販売員として本配属されたのは本社と直結しているA社の中でも一番規模の大きい店舗だった。本格的に業務が始まり、ようやく実態に触れるのである。

・帰れない、休めない…退職を決意

販売員といての業務は「忙しい」「休めない」。これに尽きた。もちろん、お客様が少ない日もあるし、楽しいことも嬉しいこともあった。そして、全国には販売員がホワイトな環境で働ける職場もたくさんあるだろう。(仕事自体を否定したいわけではないことを念押しする。)
私がいた店舗は元日以外年中無休で毎日9時~18時店が開いていた。早番の定時は8:15~17:15、遅番は10:00~19:00だが、18時過ぎに最後のお客様を見送って締め作業が終わるのが20~21時。早番の日でも閉店までいることはよくあったし、繁忙期は開店から締め作業まで勤務するシフトが組まれた。残業確定、俗に言う「通しシフト」である。休日は月8回。(当時、年間休日が96日だった。)社員は稼ぎ時の土日は積極的に出勤することが推奨され、連休は取りにくいが連勤にはなりやすい、そんな環境だった。

また、こういった店舗はディスプレイ変更・店内装飾が必須である。ハロウィンが終わったらクリスマス、それが終わったらお正月…お客様のいない時間に進めることもあったが、これらの作業はほとんど閉店後の夜におこなわれた。サービス残業を会社に強いられていたか、といえば少し違う。あまりにも勤務時間が長引くとB社や管理職クラスに注意されるため、タイムカードをある程度の時間で切っていたのだ。21時のところを19時半にしたり、22時を20時にしたり…。これは完全に間違った行動なのだが、そういう小細工することに抵抗がなくなっていたのもまた事実で、余計に苦しんだ。

世間の子どもたちが夏休みに入り、客足が増えるようになると、些細なことで涙が出るようになっていた。出勤時に勤務先の店舗まで残り2㎞の看板が見えるとどうしようもなく目が潤んだ。休みの日、母がA社のショップ袋に食糧を詰めて渡してくれるのを「なんで休日なのにこの袋を見なきゃいけないの」と振り払ったこともある。悲しいことに、ストレスでやつれるより、横に伸びるタイプの人間だったようで、体重は5キロ増えた。
そんな中決定打になったのは〈お客様アンケート〉だった。ある日回収したアンケートに、「若い店員さんがスーツの方に怒られていました。おそらく上司の人だとは思うのですが、見ていて可哀想に思い、楽しめませんでした。」と書かれていた。すぐにピンときた。私がお客様のいる前でB社の<先生>に叱責されたことがあったのだ。たしか商品の陳列がイマイチとか、ショーケースの仲が汚れているとか、そんな内容だった。
そのアンケートは、結局、何にもならなかった。通常、店内で共有され、社内の会議で報告され、改善へと動き出すようになっている。私はどこかの段階で「もみ消された」と感じているのだが、真相は分からない。ただ、結果として何も変わらなかった。

散々登場してきたB社だが、経営コンサルタント、というと私はイメージで「会社に時々きてアドバイスしてくれる人」くらいの認識でしかなかった。しかしふたを開けてみればなんと、一部部門の部長、私が勤務している店舗の店長も、B社の人間だったのだから驚いた。もう誰も守ってくれない。A社は信用できない。自分で何とかするしかない。そうして、お盆のラッシュを終えた8月最終日、23歳の誕生日を目前に私は密かに退職を決めた。できるだけ早く、この場所からいなくなりたい。それが実現するのは、5カ月後になる。

・『今辞めたら履歴書が汚れる』と言われて

すぐに辞めることもできたが、やはり稼げないと不安だ。転職エージェントに登録し、本格的に転職活動を始めた。ここで出会った担当の方には本当に感謝している。キャリアサポートはもちろん、何度も電話でやりとりをしてメンタルケアもしてもらった。この転職活動期間は、就職活動よりかなり真剣に、かつ働いていたのでハードモード全開だった。就職活動では内定が有り余っていたのに、転職活動で初めて「お祈り」され、「新卒」のパッケージがなくなった自分に価値を見出せずすっかり自信を失った。しかし、「年間休日120日以上」、「有給消化率が高い」、「賞与・昇給がある」ところを片っ端から調べて、とにかくエージェントと面談を繰り返した。自分で条件を整理してみてようやく、「仕事を遊びにしなくても、幸せになれるんじゃないか」と考えられたのだ。
3度目の正直で、転職先に内定をもらったのが12月。内定をもらったその日に店長に報告した。肯定的な言葉をくれて、救われた。しかしこのあと、管理職クラスへの報告、そして面談で、タイトルの発言を浴びることとなる。

B社の人間との面談は、初回が3時間、2度目が1時間だったと思う。「逃げ癖、負け癖がつく」「履歴書が汚れる」「経歴に傷がつく」「これから何をやっても上手くいかない」「ここで頑張れないと社会人としてどうかと思う」「一緒に頑張ってきた同期に合わせる顔があるのか」…要約するとこんな内容だった。私が退職することが、いかに不義理で不誠実で我儘で情けないことかを訴えられた。そして決まって「お前のことを思って言っている」と枕詞がついた。基本黙って、相槌のように謝るしかできなかったのだが、さすがにだんだん腹が立ってきて一言言ってやりたい衝動に駆られた。エージェントの人から「キレイに辞めたいのなら、何を言われても心を無にして、耐えるように」と言われていたためなんとか落ち着いて、途中からは考えながら聞くのをやめた。
本当は12月のうちに辞めてしまいたかったが、現場に迷惑をかけるのは嫌で、年末年始の繁忙期にめちゃくちゃ働いて辞めようと決めた。やはり自分を慕ってくれた人には、惜しまれて去りたかったのだ。

翌年、マイナビか何かでA社の採用ページを見た。確かに8名で研修を受けていたのだが、私が入社した年の採用者数は7名になっていた。過去3年の新卒離職者数は0名。頭数から消されちゃったか~と思ったが、しっかり採用実績の大学名だけ私の学歴が残されていた。当時はかなり癪に触ったが、そういう、不義理なところが嫌で辞めたんだったと納得することにした。

・5年経ったから気づく、転職して本当に良かったこと

経験談がかなり長くなったが、「たった10ヶ月で退職した」ことで先の人生、不都合なことは何もなかった。もちろん、2社目も3社目も同じように繰り返していたら、社会的な信頼を失う可能性はあっただろう。転職先での業務は畑違いだったが、指導者に恵まれた。運がよかったと言われれば、そうかもしれない。でも、最初に退職を決めたのは正解だったと胸を張って言える。
私の履歴書の最初の10カ月が、もし汚れたというならばそれはほんのかすり傷に過ぎない。今こうして文章が書けているということは、むしろプラスの経験かもしれない。それは、「辞めて、振り返った」からこそ出来る変換だ。ほかの会社を知った今、客観的にA社を分析できるようになったからこそ経験という財産に昇華できた。
形式的に、「なんで辞めたの?」と人から聞かれたときには、一番多かった月の残業時間を答えるようにしている。それ以上突っ込まれることはほとんどない。私が退職して2年の間に、8人いた同期は2人になっていた。今も2人は頑張っているのだろうか。仲の良かった社内の人も退職して、もうA社の内部を知る術はない。

それからもう一つ。A社に入社して、それから退社して一番良かったことは「友達ができた」ことだ。
これが冗談ではない。よく考えてみてほしい。社会人になってから友人と呼べる存在を見つけられることは、かなり貴重ではないだろうか。退職することを仲の良かった同期に伝えたとき、こんなことを言われた。

「辞めても友達でいてね。」

何気ない会話だったと思う。しかし私は、この言葉が本当に嬉しかった。同じ会社で、友達ができるなんて思ってなかったのだ。仲が良くても「同期」で「同僚」。大学までの友人とは無意識にどこか一線を引いていたのかもしれない。「私、この子と友達になれてるんだ…!」と人知れずときめいていた。会社で出会って、苦労を共にして、会社から出たらまっさらな友人関係が築けた。同期のみならず、ただの同僚でしかなかったA社で知りあった何人かとは、現在も連絡を取ることがある。未だにA社の思い出話をすることもあれば、互いの近況を言い合ったり、面白いコンテンツを共有したりする機会がある。この関係が築けたことは、A社でどんな仕事を成功させることよりも尊い。

さいごに。
ここに書いたことは、あくまで〈過去の実態〉である。現状は分からない。ハッキリしているのは、私にとって、A社もB社も完全に〈過去のこと〉になった。私の同僚だった友人たちにとっても、もう〈過去のこと〉。―ただ、その過去に私の味方をしてくれた人が〈現在〉のA社にまだいるのならば、その人たちの幸せを祈ってやまない。

-終-


(ここまで読んでいただき、ありがとうございました。)

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