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セロトニン、マンションの階数、死を待つ

ミシェル・ウェルベックの「セロトニン」をようやく読み終えた。

ミシェル・ウェルベックの小説が好きで、邦訳されている作品を全部読んでいる。彼の小説はお決まりパターンがあって、それは「主人公の男性は何事にも熱くなれず空虚さを抱いており、それを埋めるのが女性」という構図だ。

ただ、空虚さを埋めてくれた女性は最後には小説から退場してしまう(か、そもそも対等な関係がない)。「人生における空虚さが埋まる」ということは本来起こり得ないことで、満たされた瞬間は一瞬の幻だったとでもいうかのように、小説の最後には空虚な現実が以前よりさらに悪くなって戻ってくる。それでも、一瞬の救いはあったのだ。たとえ夢か幻だとしても、それが消えてしまうとしても、幸せを感じたのだ。

けれど、今回のセロトニンには救いがない。幸せの可能性は全ては過ぎ去り、絶望を飼い慣らしながら死を待つだけだった。突き抜けて辛く、読むのに時間がかかってしまった。

セロトニンの主人公は、過去の恋人のことを回想しながら「僕は幸せだったことがある、僕は幸せとは何かを知っていて、それについて語る資格を持っている、そして通常それに続く終わりについても」と続ける。二度と訪れることがない幸せだった過去を延々と思い返し、抗鬱剤を呑み続ける姿は物悲しい。

もちろん生産的な発想の人々からすれば、まぁ、過去の女性にそんなに囚われて、まだ言うほど年でもないんだから!などと背中を叩かれそうな気もするが、それができたら苦労しない。そもそもこのVUCA時代がもたらす慢性的な鬱症状に抗いながら生きているのだから、少しの後押しがあれば私たちは簡単に悲しみに殺されてしまう。


映画を見ていた。時代が変わり、古い時代にしっかり結びついていて離れることができなかった人間はそこで死んだ。

映画を見終わった後、突然、彼が「愛って信じている?」と言った。

「信じようとしている」と答えると「すごいね、僕は……」と苦しそうに呟いて黙り込んだ。

私は彼がマッチングアプリを使っていることも知っている。この大都会に無限にある選択肢の中で、溺れず、幸せにたどり着くことはあるのだろうか。人の意志の弱さを考えるとそんなことは奇跡に近いだろうと思い、悲しくなる。完全に性欲が消えれば正しく愛を育む相手を見つけられるだろうか。

それにしても、この人と会わなくなったら私はどうしようか。最初に付き合った男の人は2階に住んでいた。そのあとは5階、7階。次は10階だろうか。信じようと努力してみたところで、私のような弱い人間の中に愛なんてあるのだろうか。

いや、私はもう誰とも会わないだろう。
奇妙な予感だが、私は過去の遺物として死を待つ人間となるだろう。
「恋」や「愛」という甘い言葉とは裏腹に、結局のところ、若さと経済力が資本となる恋愛市場で愛を見つけようとして苦しむ、そういう時代は過ぎ去ったのだ。

最後まで読んでくれてありがとう。