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読むということについて考える。

古井由吉氏の『書く、読む、生きる』をゆるゆると読みながら、「読む」ということについて考えています。

そもそも、自分の「読む」という能力のなさに抗おうとしたのが、一年前。
イベントでお目にかかった、文学を学んできた方々の「読む」レベルの高さに、自分とは格が違うという現実に、打ちひしがれ、サルじゃないかと絶望し、立ち上がるために、これからも生きていくために、とにかく「教養」と「読む」能力を身につけねば! ……とあれこれやったのが、コロナ禍の2020年。
まあ、その結果の一部はnoteにもあげてきたので、言い繕ったって仕方ないんだよ、その程度だよ、読み方が全然違うんだよ、浅いんだよ、という自戒ですね、ハイ。

この違いは何だろうか。
最初、私が大学で歴史をやってきたからでは? と思っていました。テクストへの向き合い方が、文学とは違う? と。
テクストを全面的に肯定するところから始めるか、疑うところから始めるか。歴史学は後者。
しかし、そんなの言い訳じゃんってことに薄々気づかされたのが、上田正昭先生の『日本古代史をいかに学ぶか』を読んだあたりで。『古事記』の、私がスルーっと流し読みした箇所も、丁寧に読み解いて仮説を立ててらしたんじゃない? と。

そして、古井由吉氏の『書く、読む、生きる』。
これを読みながら、それでも最後のあがき的に、歴史史料と文学作品の読み方の違いとか、そもそもの記録文書と芸術作品とのあり方の違いとか、そういうことをノートに書き出して、自分なりの答えを導き出そうとしました。長々と書いて、答えにたどり着けそうな気さえしました。
でも、突き詰めていくと、文学でも歴史学でも「読む」行為の最深部は同じじゃないかと、そこに到達せざるを得なかったんですよね。

『書く、読む、生きる』は、古井由吉さんの講演記録から始まっていて、実はまだ読んでいる途中なんですが。
「読む」とは音読であり、響きや音の伝わる空気を感じることであり、それは単に文字をなぞり、意味を読み取ることだけにあらず。
「読む」は読解ではない、などと書かれてしまうと、脱帽するしかありませんよね、私の「読み」はどこまでいっても読解でしかない。
現代社会においては、読解だけで十分じゃん……かもしれないけれど、そういう線引きをあえてすることは、自分の周りに殻をつくることで、私自身はその殻の中から外を見て吠えてただけじゃないか。

本を読む、文章を読む、「読む」ことの真意は、高校までの国語の授業とは違う世界の話で、少なくとも正解に媚を売るようなものではなくて。
ちょっと読書の機会を増やしたくらいで、スタートラインに立つなんてのもおこがましくて、プラス、向きあわねばならない加齢による衰え。

あ~あ、ですな。
でも過去には戻れないし、毎日残業ばかりの独身正社員時代も、結婚出産子育て時代も、「読む」余裕はおろか「考える」余裕もなかったから、50代にしてやっとそういうことを考えられる時代が来た、と開き直るしかないんです、これが。
まだ生きてる。それだけで、ありがたい。

昨今、読者様第一主義というか、とにかくわかりやすさがすべて! みたいな文章がもてはやされますが、それでいいんかなと個人警鐘鳴らします。
わかりやすさって、要するに受け手側の日本語レベルに、発信者が合わせることによってはじめて成り立つことでしょ? それだと、読者の「読む」能力って全然養われないじゃん。脳も筋肉と同じ、負荷をかけて鍛えないと、ぶよぶよになっていくだけなんだからさ、いつまでたっても『資本論』読めないじゃん……って、それは私か。
だからといって、古文から始めようとか言いませんけど、私もきついし、でも自分には難しい文章を敬遠していたら、情報化社会においても、得られる情報って限られてしまうと思うんですよねえ。てか、情報操作にひっかかったらおしまいじゃん。

てなわけで、自分の興味の延長線がおもむくまま、本を読んで、考えて、我々とは何か、について深めていきたいと思います。





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