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カズオ・イシグロさんの『日の名残り』を読んで考えた個人的な感想。

カズオ・イシグロさんの『日の名残り』を読んで考えたことを、個人的にまとめたいと思います。
話の結末にもふれる予定ですので、いわゆるネタバレもやります
これから読む予定の方は、ご注意ください。


おおまかなあらすじと紹介

『日の名残り』は、イギリスの名家ダーリントン・ホールの執事スティーブンスが、主人の計らいにより休暇を得て、地方を車で旅する話です。
旅をしながら過去を振り返り、在りし日のダーリントン卿が関わったイギリス外交や、執事道の追究、女中頭であったミス・ケントンとのやりとりが、丁寧な言葉遣いで、しかし刺々しく語られていきます。

カズオ・イシグロさんの3作目の長編小説で、ブッカー賞を受賞された作品。
前々からあちこちで「面白い」と聞いていたのですが、読みやすいし面白かったです。

まあ、主人公・スティーブンスの物言いに「ひょええええ~」と思う部分もあり、ミス・ケントンもけんか腰だし、途中で「怖っ」と挫折しそうにもなったんですが。
最後まで読むとちゃんと落ち着いてくれたので、挫折しないでよかったと心から思う作品です。

先の大戦にどう向き合うのか

この作品には、二つのテーマが描かれていると思います。
ひとつは、先の大戦にどう向き合うのか。

スティーブンスが執事としてその道を極めていた時代は、1920年代から30年代半ばです。
主人であるダーリントン卿は、その立場にふさわしく、政治とくに外交に首を突っ込み、イギリス政府要人と欧米の要人との会合を、ダーリントン・ホールで催したりします。
その客人の中に、ドイツのリッベントロップがいるというのが、問題なわけですね。

ナチに接近していく主人の指示で、スティーブンスはユダヤ系の女中を解雇します。
女中頭のミス・ケントンが反対しても、主人の意向に従うのが執事の務めと、スティーブンスは割り切ります。
執事の品格にこだわるスティーブンスですから、常に黒子の立場を貫き、主人を絶対視し、主人と客人の品位を保つため、政治に無知な愚か者を演じることもありました。

結果的にナチとの関係を問われたダーリントン卿は没落し、追従するだけのスティーブンスになすすべはなく、だから旅行先の田舎町で住民たちが政治談議をするのにも、スティーブンスは冷ややかな目を向けます。

ダーリントン卿もよかれと思って行動した。
しかし、歴史の波は卿の思惑とは違う方向に流れ、卿は失意のうちに亡くなった。
政治は個人がどうこうできるものではない。と。

しかし、スティーブンスは考えることを放棄すべきではなかった。
ユダヤ人女中の解雇を言われたときに、彼女らをかばうべきだった。
ダーリントン卿を父とも慕うカーディナルが、ナチに近づきすぎるダーリントン卿の立場を心配して、卿がヒトラーの捨て駒にされかねない状況を心配して、スティーブンスに相談しに来ているのに、思考停止して突き放すべきではなかった。

すべては結果論で、スティーブンスが旅をしているのは戦後ですから、その時代だからこそ言えることでもあります。
だからなおのこと、あの戦争に至る歴史から目を背けてはいけない。

カズオ・イシグロ作品のテーマの一つが、あの戦争にどう向き合うかだと思います。
それはイシグロ氏が日本生まれだからというのではなく、戦勝国も敗戦国も関係なく、戦争に向かう過程や戦争中に「我々はどうしていたのか」「どうすべきだったのか」を、戦後に必ず検証しなければいけない、そういうことだと思うんですね。

そこはまず、読む上で押さえるべきポイントだと思います。

個人としてどう生きるか

この作品のテーマの二つ目が、個人としてどう生きるかです。

能力主義の限界

前述のように、スティーブンスは執事としての仕事の頂点を目指し、品格ある最高の執事たらんと日々生きています。
衣服を着るように執事になる。
ひとりでいるとき以外は、常に執事である。

彼の父がまた有能な執事でしたので、スティーブンスにとっては目標であり尊敬すべき相手でした。
その父を、自分の片腕(副執事)としてダーリントン・ホールに雇い入れ、ともに日々仕事をし始めます。
しかし、老いた父にはかつてのような精彩さはなく、ミスを連発。

どんなに有能な人も、老いには勝てない。
どんなに仕事に専念し、他者を退けて頂点に立ったとしても、時とともにその能力は衰え、敗残者の地位に甘んじねばならなくなる。
新自由主義一本鎗で生きてきたら、いずれみじめに倒れるだけ。

この作品の発表が1989年ですから、世界が新自由主義に走り始めて十数年という時期です。
それまでの、労働者が自社製品を買えるくらいの賃金がなければ、経済は発展しないという考え方を捨てて、能力主義に走って、本当にそれで大丈夫なのか? ということかと。

人としての幸福

仕事に邁進するあまり、人としての時間を持たず、常に執事としての役割を生きることしかしてこなかったスティーブンス。
新しい雇い主のファラディにジョークを投げかけられても、その返答に四苦八苦して「勉強」しようとします。

この時点で、おいおい……なんですけど。
でも、スティーブンスの気持ちもわかるんですよ。
仕事って、知識や技術を学んだりすれば、状況に合わせて応用することができるじゃないですか。
だからコミュニケーションも、学ぶことで何とかなるのでは? と。

ジョークを勉強する。
しかし、勉強の成果がうまく出ない。

スティーブンスは長年、旧主のダーリントン卿の意向しか意識を向けてこなかったので、それ以外の人、例えば同僚の女中頭ミス・ケントンが何を考えているか、全く眼中になし。
時代性なのかもしれませんが、同僚を人間と思わず、ともに働く同志とも思わず、女中頭という役割を果たすための素材……くらいの認識で。

だから、20年以上前に結婚退職したミス・ケントンが、復職の意思をほのめかすような手紙を送ってきたからといって、のこのこ交渉しに行くわけで。
ダーリントン・ホールが人生すべてのスティーブンスにとって、かつての同僚なら、自分が思い描く仕事の手助けをしてくれるだろうと、安易に考えちゃうんですもんね。

仕事一筋に生きてきた人は、他人と人間関係をつくることが下手すぎる。
能力主義できた人は、自分より能力が劣ると思われる人を見下すあまり、あらゆる他人を尊重したり、心を通わせたり、対等な人間として接することを、蔑んできていないだろうか。
それは、とてもさみしいことでは。

仕事人としての栄光など、一時のもの。
能力が衰え、仕事ができなくなったときに、人は人と支え合うことで、前を向けるのではないか。

これ、初老の歳になってる私には、すごくよくわかるんですね。
50代に入ると、それまでにくらべて能力が落ちていくのが、もう日に日にわかるというか、自覚しないわけにいかない。
30代40代の頃にバカにしてたようなミスを、今、自分がやってるし。
だから、より気をつけるし。
他人のミスにも寛大になれる。

スティーブンスは我々の中にいる

読んでる間は、スティーブンスの言い方がいちいち癇に障ったり、ミス・ケントンの言動にもイライラしたり、なんでもうこの二人はけんか腰で会話するんやろ、と何度も心が折れそうになりました。
とにかくスティーブンスは自己弁護が多いし、他人を見下してるし、執事として有能なんかしらんけど、やな男やな、とずっと思ってました。

はい。
スティーブンスはある意味サリンジャー(ではなく『ライ麦』のホールデン)だったのかもしれませんね。
やな男、と思っていたら、読者の中にもスティーブンスな部分ってあるんだよ、みたいな。
私の中にも絶対いる(いた)ので、やばいなと猛省中です。

おわりに

『日の名残り』は、面白かったです。

スティーブンスの嫌な部分も、ミス・ケントンのあわわな部分も、結局は自分に近いからはらはらすると思えば、そりゃそうなんですよね。
人間って、そういう生き物じゃん。
嫌な部分やダメなところがあって、それで取り返しのつかない過ちもやらかして、気づいたときには途方に暮れるしかなくて。
でも、そんな人たちに対し「自業自得」と後ろ足で砂をかけるようなことをせず、前を向こうよと手を差し伸べる。

35年前の作品ですが、今の我々に必要な優しさだなあと思います。

さんざんネタバレをかましといてなんですが。
もしここまで読んでくださって、実はまだ未読だよという方がいらっしゃいましたら、ぜひご一読ください。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。





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