『老人と海』を読んで考えた、これが私の誤読だよという話。
ヘミングウェイの『老人と海』を読み終わった話を書きます。
(ネタバレあります)
当たり前だけど文章がうまい
実は私、若いころ、この作品に対してちょっと疑心暗鬼だったんですよね。
老人が海で魚を釣る、それだけの話が面白いの? と。
莫迦でしたねえ。
小説の面白さが、全然わかってなかったんですねえ。
老人が海で魚を釣る、それだけの話をここまでの長さに書ける、だからこそ面白い読ませる小説になりえてるんですよねえ。
ヘミングウェイ自身も釣りをしたので、だから細部まで描けたようなんですけど。
いくら実話をもとにしたストーリーだといっても、こんなに見てきたように書けるうまさよ。
魚が餌にかかるまでの時間、かかってからの格闘時間、その後の闘いの時間。それらの時間の描写に無駄がなく、逆にはしょることもない。
タイムキーパーがいるわけもないのに、時間の流れが一定で、過不足なく物事が進行していく。
これは、読んで正解の小説でした。
やっぱり年月の荒波を乗り越えて残った作品は、絶対必読の価値ありです。
小説の読み方は誤読がいっぱい
国語の教育を経てきた我々は、誤読をつい恐れてしまいます。
正解の読み方はどうなんだろう、と、解説を漁って、多分自分より小説についてわかっているらしい人の意見に従ったり、「ここはこう読むのか!」と再発見したりすることがあります。
でも、作品に対する批評なんかだと、まあ誤読もたくさんあるんですよね。
『老人と海』をキリスト教的に解釈する……なんてのは、ちょっと違うんでないの? と私も思うんですが。(過去にはそういう解釈もあったらしい)
当のヘミングウェイも、宗教的な意味はないと言ってたみたいですけど、じゃあどういうふうに解釈すんねん? そのまま読めよと言われても、いろいろ想像しちゃうのが人間の性じゃんか、ということで。
小説って、作者に手を離れた瞬間から、読者が好きに解釈したって、それはもう読者の読書体験なのだから、誤読されるのが当たり前と開き直ってくれ、と言いたいくらいで。
だって読者は著者とは別人なのだから。
なので、私はこの作品の構造自体が「老い」の象徴なのだと読みました。
老人・サンチアゴは、陸の上での日常生活にマノーリン少年の手を借りています。食べることとか、翌日の餌魚とか。
でも、サンチアゴの不漁が続いていたため、マノーリンの両親はサンチアゴの舟に息子が乗ることを許さず、他の大漁が見込める舟に息子を乗せます。
だから、サンチアゴは孤軍奮闘するしかなく、(以下ネタバレ)せっかく釣った獲物をサメに襲われてしまう……というストーリーそのものが、老いを表しているのではないかと。
つまり、若者のストーリーであれば、仲間がいて、漁にも成功するし、サメにも力を合わせて打ち勝つだろうと。
それが「老い」になると、栄光とはいつも過去のもので、どんなに踏ん張ったとしても最後は必ず負けるし、若者たちに憐れまれる。
人間の人生というか晩年は、どうしたって思うとおりにならないし、次々と敗北にさらされる、サンチアゴのように……ということではないかと。
このように解釈したのは、50代半ばの私自身が老いと格闘しているからで、この先いろんなことがどんどんできなくなっていくであろう未来が怖いからだし、更にその向こうにある死が怖くてたまらないからなんだけれど。
この小説は実話をもとにしているわけだから、老人だから失敗したのか、若者でも失敗したのか、それはまああると思いますけど、小説にする上でこの形にしたというのは、きれいに「老い」を表す形になっているんじゃないかと思うんですね。
立場が違えば読み方も違う、本当にそれだと思うので、誤読を恐れずに、今後も小説を読んで記事にしたいと思います。
作家の女癖の悪さはどこまで許す?
いい小説だったねえ……で終わらないのが、ヘミングウェイの女性遍歴。
芸術家にはその辺の節操がないというか、感覚の違う人がちょいちょいいるので、いやもう「年表も解説もいらんかったわ」となったりもするんですがね。
本人たちは自己責任だとしても、子どもたちはかわいそうやん。
なんで、自分とほぼ年の変わらん女子を父親がゲストハウスに住まわせてる状態で「彼女が好きすぎて、小説を書くペンがよく走る」なんて話を父親から聞かなあかんのよ、三男グレゴリー君(当時19)は。
オープンにすな。
せめて隠してやれ。
まして、多感な息子に惚気んじゃねえ。
ま、色気全開親父は若い彼女に「高名な作家のおじ様」としか見てもらえず、彼女は別の人と結婚したようなんですけどね。(当たり前だ!)
名作の影で泣いてる子どもがいるとしたら、芸術ってなんだろう、と思っちゃいますね。
『老人と海』も明らかに人類遺産だと思いますが、その執筆過程で、父親が平気で家庭を壊そうとしてる。
そりゃ、小説が売れたお金でヘミングウェイは生活してるわけですし、作家じゃなくても家庭を壊してる人はたくさんいますけど。
なんでプラトニックに徹することができんのかな。
ヘミングウェイは20世紀初頭から半ば過ぎまでを生きた人で、二度の大戦も経験してるし(しかも第二次大戦は従軍記者として活動)、その人生は激動の時代でした。
だから、その時代の人だったら仕方がないよね、とは思うんですけど。
現代に生きて、「○○ちゃん(身近なよその若い女性)好き好き」などという話を、息子に自慢げにしてたら、それは言葉の暴力やぞ、ヘミングウェイ!
とだけは、主張しておきたい。
あ、勿論アイドルとかの話じゃないんで。
父親が、たまたま知り合った若い可愛い娘を家に連れてきて、鼻の下伸ばしてるデレデレ顔を子どもに見せたりしたら、マジで気持ち悪いんで。
変態。
ヘミングウェイは4回結婚しているので、本の巻末の年表も忙しいです。
4人の夫人の名前なんて全部覚えきれないから、年表見ながら「この人は何番目の人?」と前後に目を走らせなきゃいけない。
清廉潔白であるべきとは言わないけれど、小説本体より作者の人生の方が奇想天外って、なんかなあ……と思う部分もあります。
余韻を全部もっていかれちゃうので。
それは、作家としても不本意なんじゃないかと。
おわりに
小説を読むことって、やっぱり誤読を生むことなんですよ。
自分の読み方が誤読だろうな、という自信だけはあるんで。
それでも、考えながら読むことを辞めたら、つまんないじゃないですか。
誤読をしながら、登場人物と自分の考え方の違いを認識したり、その上で新しい発見や、自分の誤読の仕方の癖なんかが見つかったら、それがまた自分の財産になるわけで。
そんなふうにもたもたと、これからも読書して、なんやかやと書き散らしていきたいと思います。
ありがとうございました。
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