宮沢賢治と長野まゆみとカムパネルラ

先週からずっと、頭の中が『銀河鉄道の夜』になっている。
長野まゆみさんの『カムパネルラ版 銀河鉄道の夜』を読んでいるせいだ。

そもそも、双子のライオン堂さんの文芸雑誌『しししし』の1号が宮沢賢治特集で、それを買ったのが一年遅れの昨年。
読もうとしてページを開いたら、長野まゆみさんの「カムパネルラの誘惑」という記事があり、だったら『カムパネルラ版 銀河鉄道の夜』を読むべきじゃね? と、そこでずうっと止まっていた、何なんだ全く。

で、一年越しに読めました。
読みながら、本家『銀河鉄道の夜』の詳細を、すっかり忘れていることに気づきました、だめだこりゃ。

ページを開くまで、『カムパネルラ版 銀河鉄道の夜』って、カムパネルラを主人公にした二次創作的な小説かと思っていました。
長野まゆみさんの小説は、90年代に何冊か読んでいて、多分、結婚・出産・離婚などの多種多難がなければ、今も読んでいたかもしれません。
当時の長野まゆみさんの印象は、静謐な文章を書かれる方、というようなもので、正直こちらの無教養さをさらけ出しちゃってますが、だからこそ、『銀河鉄道の夜』のイメージぴったりやんって思ったんですな。

ま、二次は二次でも、解説ツッコミ本でしたけどね。
個人的に、私は書評などであらすじを紹介されるのが苦手で、作品はまっさらな状態で読みたいし、解説も、そういうふうに読まなきゃいけないと強要される気がして、なかなか手を出していませんでした。
その辺が、現代文の点数が伸び悩んだ証というか、テスト問題に敢えて逆らうような読み方ができないか考える愚かさというか、生きづらい人生やってるんですがね。

でも。
『銀河鉄道の夜』の詳細を忘れているというのは、何度読んでもよくわからない、自分の読解力の限界だったんだろうな、と。
中学時代と、大人になってからと、人生で二度『銀河鉄道の夜』を読んでいるけれど、二回とも「よくわからなかった」。
今回『カムパネルラ版』を読んで、初めて少しわかった気がしました。
賢治の恋とか、ああ、彼も人間だったんだもんねえ。

しかし。
あらためて『銀河鉄道の夜』に向き合ってみると、この作品の影響力の大きさを感じずにはいられません。
だって、アニメやなんかで、死者の魂を運ぶもの=電車、という表現の発端が、これなんでしょ?
もう、何言っても太刀打ちできない感じ。

実は、故人の作品を読むって、死の恐怖に向き合う練習だと思ってました。
昨年、乳がん検診でひっかかって、結果的に良性だったんですけど、1カ月くらい、自分の死について向き合わざるを得なくなって、今回はたまたま良性だったけれど、死からは決して逃れられないということを、現実問題としてとらえざるを得なくなって。
どんなに頑張っても、自分に残された時間には限りがあって、そのときは必ず来るし、無に帰さざるを得なくなる、必ず。
だから、故人の作品を読むことで「この人ももういない」という、ある種の連帯感的な安らぎを探そうとしていたんですね。

『銀河鉄道の夜』が、そもそも死を暗示する作品である上に、『カムパネルラ版』では、中原中也ならぬ中原宙也なる詩人があの世から降臨して、宮沢賢治について、これでもかこれでもかと語り出す。

私は仏教徒なので、成仏という魂の消滅がいずれあるとしても、宙也みたいに魂の通信ができたりしたらいいなと、思わずにはいられなかった。
ま、あんまり現世への未練が残ってると、ちょっと苦しいみたいなので、いえ、霊感強い知人の言葉ですがね。
先日も、20年以上前に亡くなった母方の祖母が、夢に出てきて天ぷらパーティーしてくれたんで、銀河鉄道の客車から覗き見てくれてたらいいなあと、そんなことまで思ってしまう『銀河鉄道の夜』体験なのでした。

ああ、本家『銀河鉄道の夜』を読み返して、返り討ちにあってる『中原中也詩集』にも再挑戦しようっと。





この記事が参加している募集

#読書感想文

189,568件

よろしければサポートをお願いします。いただきましたサポートは、私と二人の家族の活動費用にあてさせていただきます。