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川上弘美作品の懐の深さと『某』

川上弘美さんの『某』を読んだ。
この方の作品の特徴は、何といってもその懐の深さだと思う。

『某』にも、いろんなキャラクターが登場する。
そもそも主人公からして、人ではない「誰でもない者」。
その「誰でもない者」が、いろいろな人間に変身する。
いろいろな人間として生きていきながら、「人間とは?」「生きるとは?」といったことを問いかけていく。

主人公は、癖のあるさまざまな人間と遭遇する。
それらの他者は、主人公に好意的だったりそうでなかったり、普通に生きているめんどくさい人間だったりする。
例えば、ラモーナが出会う香川さんて女性などは、めんどくさい日本女性をこねて固めたような人で、なるべく距離を取りたいと思ったとしても、まあ仕方ないというか。
実際、ラモーナは香川さんに関わることで、体調不良を起こしているし。

なんだけど、作品内で香川さんが排除されることは、ない。
人生のすれ違いで、疎遠になってしまうことはあっても、それは香川さんの中にめんどくさい性質があったからでは、ない。
ラモーナは香川さんに関わろうとするし、だからこその体調不良だし、でも親友という間柄のふたりではなくて。
その関係性というか、ラモーナがどんどん香川さんの保護者のようになっていく、その慈しみというか。
その辺の行間から立ち上がる空気が、川上弘美作品なんだなって思う。

そして『某』では、主人公が「人間とは?」という問いに向き合うのだけれど、その向き合い方が、いわゆる人間の成長をなぞるかのようで、ひとつひとつの気づきや振り返りが、興味深かった。
主人公は人ではない「誰でもない者」なんだけど、人であっても、人間性とか人生とかに悩むことは多いし、他者と感覚の全く違う自分に戸惑うことも、ある。
『某』の主人公の精神的な成長具合は、幼児から大人へ、子どもから親へ、と移り変わるもので、見た目は高校生なのに幼児のようであったり、反対に何度も変身を繰り返した挙句、姿は幼児なのに心は大人だったりする。コナンではない。

こういうのを見ていると、人って自分が望んだときに、何歳からでも成長できるんだよなあって、すごく思う。
主人公は最初、言われるがままに高校生の姿になって、流されるように高校生活をおくる。
そこに、本人の主体性はない。
それが、変身を繰り返すことによって、前とは違う自分を意識し始め、自分とは何かを考え始めたときに、自主的に行動するようになる。
自主的に行動することで、経験が学びにつながり、生きていくためのノウハウが蓄積され、「誰かのために生きる」という点に到達する。

ああ、人生だなと。

小説を読んで人生訓を感じるとか、邪道かもしれないけど、でも小説の仕組みそのものって、人生と似たり寄ったりではなかろうか。
始まりがあり、終わりがある。
頁を閉じた後に、キャラクターたちの生きる世界はない。
それは、死とどこが違うんだろう。

だから、小説のいろんな言葉に耳をすませて、苦い言葉であっても受け止めて、自分の中に蓄えていきたい。
蓄えて、自分の中で咀嚼がすんだら、子どもたちに語っていきたい。
とりあえず『某』は面白かったよ、と。





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