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【読書記録】トーマス・マンの『魔の山』を誤読する。

トーマス・マンの『魔の山』を読んだ話をします。

この記事は、いわゆるちゃんとした解説記事ではなくて、あくまで素人が個人的に読んだことを書く誤読モノです。なにとぞご了承ください。
また、記事中でネタバレもかまします。ご注意ください。


歴史好きの目で読む

のっけから何ですけど、私は歴史が好きです。
なので小説も、その作品が書かれた時代性や地域性を考えながら、読んでしまう癖があります。史料として読んじゃうんですね。
なので、『魔の山』上巻が第一次世界大戦前、下巻が大戦後に書かれたということを、下敷きのように意識しながら読みました。

舞台はスイスの高原地帯にあるサナトリウム。青年ハンス・カストルプは、サナトリウムで療養中のいとこを見舞いに来て、3週間滞在します。が、彼自身も肺結核の症状を発症し、療養生活に絡めとられていってしまう。
というのが、『魔の山』の大まかなあらすじです。

なので、最初はサナトリウムの看護体制が、気になって気になって……。
現代だったら絶対隔離病棟! だと思うのに、みんな普通の生活しているし、食堂で一斉にご飯食べてるし、なんというかおおらか。おおらかというか無知が怖い。100年前の医療ってこんな感じなの? 絶対院内感染クラスターじゃん! と思ってしまう。いわばホラーですね。

一方、上巻のエピソードですごくいい! と思ったのが、ハンス・カストルプたちが映画を見に行く場面。
映画館で、映画を観終わったあと、観客たちが呆然とするんですよ。

すごくよかった、拍手したい、でも今見た役者たちはそこにいない。
芝居なら賞賛の拍手が役者たちに届く。カーテンコールで出てきた役者たちと、感動を共有できる。
しかし、自分たちが感動したのは。役者の過去の残像でしかない。現在あの役者たちは、別の場所でこの芝居とは違うことをやっている。
映画って、なに? という戸惑い。

この感覚って、当時の人じゃないとなかなか書けないと思うんですね。というか、そんなこと思いもしなかった。
我々は、映画と役者は地続きじゃないと初めからわかってるし、応援上映で盛り上がれるし。感動を役者と共有ではなく、観客同士で共有? それが現代。
文化に対する向き合い方そのものが、ここ100年で変質しているというか、否、新しいものに対する最初の戸惑いと考えたら、わからないでもないけど。しかしそれが逆に新鮮で、当時の人たちを理解するきっかけになりそう。

本当に、すみっこをつつくような意見で申し訳ないんですけど、こういう細かい部分が丁寧に記述されていて、そのときの時代性を感じられるというのが、面白いんですよね。
はい。

時間と教養

この小説は、青年ハンス・カストルプの成長物語なんですが、だからこそ時間が主な構成軸の一つになっています。
初めての体験は、真新しいことばかりなので時間がゆっくり進む。しかし新しい習慣に慣れてしまうと、時間感覚が麻痺していく。物語自体のペース配分も、ハンス・カストルプ(と読者)の体験感覚に合わせて、どんどん早くなっていきます。

というようなあたりまでは、NHKの【100分de名著】で言われてました。解説拝借。
それで、「ふ~ん、そういう書き方してるのか~」と思いながら読んでいたんですけど、いやに作者が地の文で「時間」「時間」と言ってくるんですよ。急き立てるように。
そうなるとやっぱり、戦争の影響とか、敗戦後ドイツの状況とか、そういうことかなあと考えてしまうわけで、下巻のラストがアレだし。

とはいえ、短絡的な影響元を探してしまうのって、実は誤読の入り口……という気もします。実は、時間そのものを考える思考プロセスの方に、重点が置かれているのかもしれないですね。
というのも、主人公の成長物語が「教養小説」とされる社会ですから。
正直、ちょっとついて行くのに苦戦するような哲学的会話が、この作品には数々出てきます(個人の印象です)。しかも分野も多岐に渡って。人文学・哲学から、神学、医学、生物学、美術、音楽、などなど。

青年ハンス・カストルプは、師を自認するセテムブリーニやその好敵手ナフタらの講義や討論を浴び、サナトリウムの医師たちの話を聞き、いとこのヨーアヒムや他の療養仲間たちと暮らし、本を読み、レコードを聴き、有り余る時間を教養を身に着けることに費やします。
その結果、最初はセテムブリーニに対して斜に構える若さもあったのに、だんだん他者のあしらい方がうまくなって、最終的にトラブルの仲裁役を買って出る立場になり、めっちゃ頼もしくなってる。(でも自己肯定感は低い)

我々は、大人になることに対して、「自分で稼げる」ことをハードルにしている感がありますが、少なくとも『魔の山』においては、社交性なんじゃないかなと思いました。
年齢性別に関係なく、友好関係を築ける。
年長者の専門分野の話に、きちんとついていける。
コミュ力も、単なる聞き上手とか調子を合わせられるとかではなく、相手の話に対して自分の意見を持ち、かつ意見が対立する場合にはすり合わせができること。
ハンス・カストルプは、時間が進むとともに、それがどんどんうまくなっていって、いつの間にか「頼むよ! お前さんが頼りなんだ!」と読者に思わせる。若者の成長ってすごい。

社交性には教養が必要とは、近年日本でも言われていますが、損得勘定だけだと人間ぺらくなるので。すぐに稼ぎに結び付かなくても、教養って必要ですよね。

権威主義と女性蔑視

下巻で、ペーペルコルンという老人が登場します。
ハンス・カストルプ憧れの女性、ショーシャ夫人が連れてきた、老実業家です。
ハンス・カストルプは、この恋敵でもあるペーペルコルンを「大人物」として尊重し、この老人と友好関係を結ぼうとするんですがね。

自分の思い通りにならなければすぐに癇癪を起すペーペルコルン。
声を荒げるペーペルコルン。
輪の中心にいたくて、皆に料理や飲み物を振舞い、療養所の就寝時間(レストランの終了時間)を破るペーペルコルン。
これのどこが「大人物」なの?
金にものを言わせて、我がままやってるだけの、未成熟な男じゃん。

つまり、これが権威主義なんだよなあ、ということですね。
大物実業家に逆らうと、この先不利益を被ることになる。だから、こういう人には従っておかなければならない。「大人物」だと思い込むことが重要。
ハンス・カストルプも、そんなピラミッド型意識の中に吞まれていったわけです。時代ですかね。

というか、好きな女性に対する愛より、その女性が連れてきた愛人の持つ権威が勝るって、なんなの?
その程度の愛ってことじゃん。恋に恋する少年かよ。

また、ハンス・カストルプと同様にショーシャ夫人に想いを寄せる男、ヴェーザルの主張が、キモい。
身体=肉、顔=魂という解釈で、自分はショーシャ夫人の顔が好きだから魂を愛しているなどと抜かすの、いやもう単に美女を所有したがるモテない男のそれじゃん。彼女の気持ちなんてどうでもいいの、彼女の顔が好きという自分の感情しかなくて、それが報われないことに苛立ってるの。キモイわ。

まあ、そういう段階を経て大人になっていくというのは、わかります。経験値が足りないと、独りよがりの感情に振り回されること、あるよね。私も身の覚えがあります。
そんな坊やたちの身勝手さに気づいているから、ショーシャ夫人も地の文で退場したんだろうし。あるいはペーペルコルンの最期も身勝手の一端だよね。敗者になるのが怖かったんだよ、じじいは。

出産と降霊

女性蔑視な人間を描く傍らで、トーマス・マンは出産の大変さを執拗に書きます。「もう結構」とやめさせるわけにはいかないことと、悲痛さを表しつつ、降霊術の憑坐の少女エリーを産婦に例えて、その苦しみを延々と書きます。

降霊術なんて、現代の感覚からすると「やべえよ」の一言で終わってしまうんですが、当時は先端科学の一つという位置づけだったんですかね。精神医学が興ったころでしたし。でも、医者が降霊術をやるんだもんなあ。

この降霊術で、ハンス・カストルプは亡くなったいとこのヨーアヒムを呼んでもらうように頼みます。
でも、降霊術はなかなか成功しない。延々と続き、エリーは苦しみ続ける。
そしてやっと現れたヨーアヒムは、軍人の格好をしていて、まさに時系列的には未来の第一次世界大戦に従軍しているようで、そんな彼を見たハンス・カストルプは「すまない」と一言言って、降霊術をやめさせてしまいます。

この「すまない」の意味はなんなのか。
死してなお従軍の意思を持つヨーアヒムと、怠惰なニート療養者の立場にしがみついている己との対比で、自責の念の駆られたという部分も、勿論あると思いますが。
その上で、あれだけの苦痛をエリーに味わわせたことや、ひょっとして同様の苦しみをヨーアヒムも味わったのではないかという、出生のストレスを慮ったことじゃないかと思いました。
何もせず、ラクな位置にいて、ヨーアヒムの存在を「消費」してるハンス・カストルプの自責。

ヘイトは負の空気を伝染させ、戦争に向かう

物語の終盤、それまでの「いろいろあってもそれなりに穏やかな日常生活」が一変し、諍いが絶え間なく起こるようになります。
ヘイトは負の空気を伝染させる、というやつですね。
皆がピリピリしだし、決闘に至るようになります。
明らかな、戦前の空気。
そして第一次世界大戦に至ります。

やっぱり差別や排除は、社会を不安定にさせる要因なんですよね。
戦争を、天災などではなく、起こるべくして起こったものとして描いているんですね。
その不安な感じ、坂道を転げ落ちるようにすべてが変わっていく感じが描かれていて、この空気が現代と非常に近い気もして、読みながら非常にどきどきしました。

『魔の山』を書いた時点では、まだナチ政権による独裁と暴走には至っていないはずなんですが、トーマス・マンはハンス・カストルプの未来に悲観的です。まあ、戦後の莫大な賠償金を前にして、悲観するなという方が無理か。
トーマス・マンが最後の一文で未来を託したドイツ人は、その後再び破滅の道を選びます。残念ながら。我々も同じ。

でも、ひとりの人間にできることなんて限られているから、大作家であっても、人々に託すしかないんですよね。混迷の時代は特に。

おわりに

トーマス・マンの『魔の山』の存在を知ったのは中学の時で(当時好きだった新井素子さんの大学志望理由が「トーマス・マンの『魔の山』を原文で読みたい」だったので)、それ以来40年間、ずっと気になっているけど手を出せない作品のリスト上位に、この作品は鎮座してました。
なので、40年越しの宿題を、一応こなした気分です。
とはいえ、ちゃんと読めてる自信はないし、トーマス・マンのことも全然わかっていない。ユダヤ人でアメリカに亡命したということぐらい。

私の残りの人生は、もう40年もないだろうけど(40年後は95だもん、無理無理)、やり残した宿題はひとつずつ片づけていきたいなと切に願う2024年の夏なのでした。
でも一つ読んだら、読むべき本が増殖していくから、宿題を終えることなんて絶対ないんですけどね。「あれもこれもまだ読んでない」と思いながら死んでいくのかなあ。

この本を読んだからって、すぐに利益につながるわけじゃないですけど、本って読み続けることで読む力は増すし、知っていることが増えると他のことに対する理解力も増すので、読書して損は絶対ないです。視力の低下と肩こりはあるかもしれないけど、スマホ見てても同じだしな。

そう思いながら、麦茶をぐっと飲む、熱い2024年夏。

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