見出し画像

禅について考えた。『坐ればわかる 大安心の禅入門』を読んで。

外国の方が日本について語られるとき、必ず出てくるのが、禅。
でも、私は坐禅をしたことがありません。

日本人の特色のように認識されている禅を、全く知らないってどうなの? と思い、読んでみました。『坐ればわかる 大安心の禅入門』(そこは坐りに行くんじゃないんか~い!)

坐禅は無心を求めるんじゃない?

坐禅って無心になるための修行みたいに思ってたんですけど、そういうわけではなくて、ただ坐る、ということのようなんですね。

え?
もやもやいろんなことを考えてたら、喝! って叩かれるやつなんじゃないの?

まあ、そういう部分も無きにしも非ずかもしれないですけど、読んでいると、坐禅ってマインドフルネスに近いのかなと思いました。
今、ここにあることに向き合う、というような。

自然とともに生きる?

禅宗の修行僧の生活についても書かれていて、いわゆる質素で昔ながらの自然な生活を共同でやっていく……というふうなもん? と受け止めました。

大量消費経済と無縁な、四季折々の美しさを肌で感じる生活。
そういうところに、欧米諸国の方々は惹かれるのかもしれません。
物欲を満たして満たしても飢餓感に苛まれるから、無欲の幸福こそ本物の幸福ではないか、と?

確かに物欲と距離を置いた生活は、平穏だと思います。
私もそういうふうに生きたいと、思わんでもない。
ただ、寒そうなのは……乗り越えられる気がしない……。

組織としての在り方

個人として、大量消費経済と距離を取る生き方というのはしたいと思うんですが、組織としてのお寺の生活には、やっぱり抵抗があります。

先輩の言うことが絶対的な部分とか。
適材適所はなく、苦手な仕事にも割り振られるし、苦手であっても人並みにできるまで叱られ続けるとか。
そういう全体主義的な部分が、集団行動苦手な私には、無理。絶対無理。
学校の宿泊研修の類だって、もう辛くて辛くて、早く帰ることだけが楽しみだった。

まあ私の話はさておいても。

上位者の言葉が絶対で、それに必ず従わなきゃいけないから、余計なことを考えずに日々の鍛錬に励む……というところに幸福を見つけるのは、結構やばいんじゃないかなあとも思いました。
それでうまく組織が回るときも、あるかもしれないけれど。
トップが腐ったら、瓦解しかねないじゃん。

例えば自分には見えていないものを先輩は知ってて、だから先輩の言うとおりにした方が近道だったり安全だったりっていう部分は、いろいろあると思う。
先輩の意見に逆らうというのは、無知ゆえの暴走……かもしれない。

これ、学校教育にも通じる部分かなと思うところで、学校教育のカリキュラムって実はすごく完成度が高くて、それは150年間考え続けられてきたからなんだけど、でもやっぱり授業がつまらなかったりすると文句を言いたくもなるでしょう?
で「これからはAIを使った独学の時代だ」とか言い出したりもする。
でも、通常の授業を受けて学んだ方が、基礎は身につくんですよね。一から独学だと、英単語を全部調べるような愚に陥るので。

だから、問答無用で仕事を指導されたり、なんでもできなきゃいけないというのも、特に自然の中で生きるのであれば、求められる資質であり、越えなきゃいけないハードルなのかもしれない。
それは、わかる。

なんだけど、やっぱり抵抗感が拭い切れないのは、抵抗しなかったら、パワハラ虐待の温床と化しても、甘んじて受けざるを得ないからだろうな。
生存性バイアスというか、その組織で生き残ってきた人だけが生存できてる訳だから、病んで潰れていった人たちは、闇の中だもんな。

組織って難しいな、ということを、再確認した次第です。

隣の芝生は常に青い

この本の著者・星覚氏は、欧州にも行かれています。
そこで、坐禅に来た欧州の方々の声も紹介されているんですが、皆さん、アジアに夢を見過ぎじゃない? と思ってしまった。

禅のある東洋は、大量消費経済とは無縁の、自然派でゆったりとした楽園みたいに思われてる?
うちらが欧州に、自由と民主主義と人権と男女平等を見るような感じ?

つまり、楽園なんかないよ、自分たちの社会をよりよくしていこう、ということでしょうか。

アメリカ型大量消費経済が幸福をもたらすわけではないことは、もう周知の事実となりつつある昨今。
経済大国としてもどんどん滑り落ちてる我が国としては、自分ちの芝生に向き合う姿勢が必要かなと。
幻想見て日本に観光に来てくれた人に、あんまり幻滅して帰ってほしくはないですしね。

以上、お付き合いいただきありがとうございました。



この記事が参加している募集

#読書感想文

189,568件

よろしければサポートをお願いします。いただきましたサポートは、私と二人の家族の活動費用にあてさせていただきます。