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メンタルが落ちたときに、なぜエッセイ本を読みたくなるのか問題。

50数年人間をやっていても、メンタルが落ちることはあります。
生きてりゃ、失敗もするし。
そういう時に、ちょっと読みたくなるのがエッセイ本。
小説だと、うっかり壮大な物語に手を出してしまったりして、痛い目を見かねないので。
作品世界にのめり込んでいければともかく、その壮大さについていけなくて挫折したりすると、さらに落ち込んでしまう……。
もちろんエッセイ本も、自己啓発本のように読めそうな本を選んでいるあたり、ずるいっちゃあ、ずるいんですが。

で、まず読んだのが、川上弘美さんの『東京日記⑥ さよなら、ながいくん』。

川上弘美さんの『東京日記』は、もう20年も連載の続いているエッセイ集で、私も1巻からずっと何度か読んでいます。
当初は、ホント7割ウソ3割というバランスの、日常と非日常が入り混じる作風でしたが、この6巻はほぼホントということです。なので非日常感は薄目ですが、川上作品独特のあの不思議な空気感は健在です。

で、メンタルが落ちたこのときに、『東京日記』シリーズをつい手に取ってしまった感覚、読みたくなる感覚とは何なのか。

・川上作品特有の、日常と非日常の間に浸れることが、純粋に楽しい。
・『東京日記』のテンポの良い文体が、味わい深い。
・偉ぶったり激しく自己主張したりしない作者の目線に、ホッとする。

ウェブ上でもいろんな人がエッセイを上げているので、私たちは結構普段から、よそ様のエッセイを読んでいるんではないかと思います。
まあ、エッセイとは何か、というところを問い始めたら、本当のエッセイなんてあまりないよね~という結論に達しかねないですけど、そこはまあ置いといて。

文章を書こうとする人は、自分が「書きたいもの」を持っているから書くわけで、その「書きたい」を前面に出すと、時に押しの強い文章になったりします。
その押しの強さが、読む人にパワーを与えてくれる場合もありますが、返って重荷となる場合もあり……。
特に、ビジネスで成功してる人の文章は強烈なので、あらかじめ一歩引くぐらいの感覚で読まないと、疲れてしまいます。

川上弘美さんの作品を、そういう人の文章と比べるのはどうかと思うんですけど、本当に「無防備な感じの自分」を見せて下さるので、読んでて安心できます。
肩肘張って、自分を強く見せようとしなくても、人間はただ生きているだけでいいんだ、と思わせてくれるような、そんな安心感があります。

そして、川上弘美作品の特色である「他者を排除しない」感じも、エッセイにはふんだんにあります。
川上さんとは全然違うタイプの人や、ちょっと川上さんに対する当たりがきつくないかい? と思っちゃうような人も、まず肯定から入ってる。
合わない人を「切る」などはしない。
だからこそ、疲れたときに読みたくなるエッセイ本となるんですね。

そんなことを考えながら読んでいると、自分も川上弘美さんみたいな大人になろうと思うようになり、己の至らなさの反省会をするようになります。個人の感想ですが。
それで、読み終える頃には、ちょっと元気になっているという訳ですね。
この儀式を繰り返すために、『東京日記』は何度か読み返してる気がします。

ちなみに、過去noteに上げた川上弘美作品(小説)の感想記事はこちら⤵
だいたい同じようなことを、作品から受け取っています(笑)


それで。
川上弘美さんのエッセイ本を読んだら、もうどのように立ち上がれるかも予想がつくので。
ちょっと変化球も必要じゃないかと、図書館で手に取ったのが、鶴見俊輔さんの『流れに抗して』。
うっわ、Amazonから画像つきで引っ張ってこようとしたら、検索してもひっかかりません(涙)

『流れに抗して』は、あちこちで書かれたエッセイをまとめられたもので、与謝野晶子について書かれたものから始まるあたり、時代としては古いです。
鶴見俊輔さんについては、生前、気になっていたけれど「難しそう」で読んでいなかったので、これが初という素人なんですけど。

先人の生きた証を読むことで、その人がどう生きたかを知り、自分とは違う考え方・生き方を知り、それを一度自分の中に落とし込んでみることで、なぜ自分とは違うのか、そこに至る境遇とは何か、そういったことに思いを馳せることができるのだと。さすれば、他者を否定することなく、自分が迷った時の道しるべともなりうるのだと。
そういうことを言われているのかなあ、と思いました。

この本では戦争経験者……というか当事者についても取り上げられており、そのあたりの記述については、違和感のようなものがつきまといました。
というのも、命のやり取りを常にしてきた人たちの感覚は、やはり怖いというか、善悪とか建前とか正しさとかじゃなく、忖度するのは当たり前だし、生き延びるための汚さは間違いじゃないというか、民主主義などない権威主義のずるさが、ちょっと……。
今の価値観が180度ひっくり返った社会が、確かに過去この国にあり、近いうちにまたひっくり返りそうな予感が迫る怖さ、ですかね。

戦争当事者たちは、戦後の社会を斜に構えながら眺めていたんでしょう。
偏屈おやじが多かったのも、そういうこと。
彼らから見ると、戦後派はさぞ甘ったるかったんだと思います。
生き死にの境界線なんて、経験してないですもんね、ほぼ。

大本営発表とかじゃなく、少国民として受けた空襲の記憶だけじゃなく、当事者としてのひとりひとりの感覚や考え方や生き様を、もはや記録の中から探し出すしかないからこそ、こういう先人の本はなくしちゃいけないなあ、と思いました。(Amazonになかったのを根に持っている……)

今回は、『流れに抗して』というタイトルにちょっと惹かれて手に取りましたが、もっとちゃんと潜っていかなきゃいけない。
それは、文学を研究している方々に任せておけばいいとかいう問題ではなく、我々ひとりひとりが意識していかなきゃいけないんじゃないかと。だって当事者たちの多くが鬼籍に入ってしまいましたから。

世の中にはいろんな人がいるし、自分から見たら「それ違うでしょ」と言いたくなるような考え方の人もいるし、でも違うと思う考え方に至る過程には納得できたりもする。
私も、鶴見俊輔氏の結論にツッコミ入れたくなった部分がありますが、それでも「生きてきた時代が違うもんなあ」という部分はわかる。

結局、こうしてエッセイ本を読んでいくと、自分が抱えている問題とか今の社会とかは「絶対ではない」というところに、突き当たるんですね。
だから、自分にできる範囲でふんばるしかない。不本意でも。
というあたりに落ち着くために、エッセイ本というのはパワーを与えてくれる存在なのでしょう。

本来のエッセイは、そんな気安いものじゃないかもしれませんけど。
哲学だって、そもそも人間のお悩み相談窓口だったわけですし。
これからも迷ったら、手に取りたいと思います。

ありがとうございました。

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