![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/134950436/rectangle_large_type_2_2b24e6c782e492fdad4db829dd65db79.png?width=1200)
82 村山由佳『ある愛の寓話』
愛とは何かを考えさせられ、「愛とは自由である」ということを感じさせられる、そんな「人」と「人でない存在」との寓話集6篇。シンプルな作品名で明確なイメージが湧かないままページを捲り、そのメッセージの深さ、愛することの温かさや美しさに心を震わされる。ぬいぐるみ、犬、猫、かご、馬、聖母と、愛する主体も客体も人に限らない。生きものに限った話でもない。もっと自由に考えていいし、そういう愛のかたちに気付けるようになれば、もっと豊かで色鮮やかな人生に繋がるはずだという確信も得られた。
どこかおかしいのだろうか、とは何度も考えた。
世の中、女性が女性を好きになることも、男性が男性を好きになることもある。外国人ばかりを恋人に選ぶ人もいるし、親子ほどの年齢差がある相手しか愛せない人もいる。
けれどそれらは皆、同じ人間同士だ。人が自分と違う種類の生きものを愛する場合、それはあくまで飼う者と飼われる者との関係であって、通常のパートナーシップとは異なるものと見なされている。
たまたま愛した相手が犬だったから仕方がない、などとは思わない。たまたま、ではないのだ。少なくともわたしは、彼が人間の男だったらよかったのになどとは思ったことがない。今の姿であればこそ、わたしは彼を愛する。軀をつなげなくとも愛することはできる。
自分はいったい誰なんだろう、と考えてしまうことがある。
夫の真一にとっては〈妻〉で。
子どもたちにとっては〈母親〉で。
私の両親にとっては〈娘〉で。
夫の両親にとっては〈嫁〉で。
ついでに言えば、勤め先の肩書きは、〈副編集長〉だ。
けれどそれらはみな役割の名称でしかない。だとしたら素の私自身は、いったい誰なんだろう?
時々ふとそんな考えが脳裏をよぎるようになったのは、四十代の半ばにさしかかってからのことだった。まだ何者でもなかった十代の頃、言い換えればこれから何者にでもなれた頃の自問とは、また違った感覚でそんなふうに思って、思うたびにかすかな不安を覚える。
でも、〈母親〉である部分は私の中の一部であって全部じゃない。〈母親〉を全うするだけでは埋められない空洞があって、そこに〈妻〉を加えてみても、まだ埋まらない。
自分が命を持たないただのかごであることを、わたしはどれほど神様に感謝しても足りませんでした。もしも連れ合いだったなら、あるいは犬や猫であったなら、どんなに彼女を愛していたところで一緒に焼いてもらうことはかなわない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?