カツオのたたきと日本人移民村(花蓮)|岩澤侑生子の行き当たりばったり台湾旅(12)
台湾一周旅の最終日。ずっと台湾鉄道の車内から外を眺めて気付くのは、台湾の西側と東側では景観が全く違うこと。西側では人々の生活を感じる風景が続き、東側では自然のダイナミックさに圧倒される。移り変わる景色に一秒たりとも飽きることがない。
花蓮駅に到着。せっかく花蓮にきたのなら、美味しい海の幸を食べたいと思い、インターネットで検索すると、少し離れた場所にカツオのたたきが有名なレストランを発見。
時間があまりないので、さっそくバスに乗って向かおうとするも、1時間に1、2本しかバスがなく、すぐに乗車することができない。台湾の東側は、市内を走る公共交通機関の数が西側に比べて少ないので、旅行客は車をチャーターしたり、バイクで移動したりすることが多いようだ。歩くとお店の営業時間に間に合わないので、この旅で初めてタクシーを使う。
花蓮駅からタクシーに乗って10分ほどで「芝麻開門」に到着。ラストオーダー間際だったので、ちょうどお客さんの波がひいたところだった。お店の人に、カツオのたたきはまだありますか?と聞くと、今日の分はもう売り切れてしまったとのこと。残念!
他に海鮮のメニューはなさそうだったので、一言断りを入れてお店の外に出る。漁港の近くにでも行ってみようかな、でも帰りの電車に間に合うかな、と逡巡しながら歩いていると、後ろからバタバタとさっきのお店の人が追いかけてきた。
「カツオ、ありました!さっき漁港から届いたばかりなんです!良かったら戻って食べてください!」
そんなことってある?!と思いつつ、急いで引き返す。
お店に戻ると、オーナーが出迎えてくれた。どうやら日本人の方のようだ。「よかったら焼き場を見学しますか?」と案内してくれた。
台湾の東海岸は黒潮(暖流)と親潮(寒流)が合流するため、カジキ、マグロ、シイラ、カツオなどさまざまな種類の海鮮が水揚げされる。「芝麻開門」のカツオのたたきは、台東や花蓮の漁港でとれた新鮮なカツオをこだわりの藁で焼きあげている。今まで食べたことのあるカツオのたたきとは比べ物にならないほど香り高く、しっとりとしたカツオの濃厚な旨味が舌に絡みつく。
幸せを噛みしめながらひとり黙々と食べていると、さきほど焼き場を見せてくれた日本人オーナー、溝淵剛さんがやってきた。どうして花蓮に来たの?と聞かれたので、大学院を修了した記念に一人で台湾を一周しているんです、と話すと「今から子供と夏休みの思い出作りにドライブに行くので、よかったら一緒に来ますか?」と提案される。またまた、こんなことってある?!とびっくり。願ってもないお誘いだけれども、出会ったばかりなのにいいのかなと一瞬迷う。しかし、ここは台湾。共通の知り合いもいるようだったので、これも何かの巡り合わせと思い、ぜひ、と答えた。
剛さんがお店を閉めている間、近くの花蓮文化創意産業園区で車を待つ。ここはもともと日本統治時代に建てられた酒造工場だった。
花蓮文化創意産業園区は旧市街に位置し、街の発展を見守ってきた。日本統治時代には1500坪を越える敷地で米酒などの蒸留酒を製造していた。園区に面する自由街は、戦後の1950年代から60年代にかけて花蓮でもっとも繁栄したエリアだった。現在はアートセンターとしてアーティストの活動を支援し、花蓮の文化力を牽引する役割を担っている。
剛さんとその子供、ぶぶさんが車に乗って迎えにきてくれた。ぶぶさんは剛さんの7番目の子供だと聞いて驚く。剛さんは愛媛県の宇和島出身。お母さまが経営する飲食店で台湾原住民アミ族の女性と出会い、結婚。
地元で本格的な台湾料理屋を経営していたが、心機一転、20年以上前に配偶者の故郷である花蓮へ移住。高級な日本料理屋が中心だった花蓮の地に、手軽な値段で食べられる日本の家庭料理のお店を出そうと決意。四国の郷土料理であるカツオのたたきが看板メニューの「芝麻開門」は、地元の人にも台湾に住む日本人にも愛されるお店だ。
大きな時計が目印の建物の左下に「全ての始まり」と日本語が書かれている。剛さんに聞くと、ここは日本統治時代に黒金通りと呼ばれた目抜き通りで、この通りから花蓮は都市として栄えていったという。黒金通りは、市内の骨格を成す主要道路として早くからアスファルトで舗装され、その見た目からその名がついたとか、夜の街として栄えていたので暗い時間に得られるお金が多かったからとか、鉄道の線路が走っていたからとか、由来は諸説あるようだが、名前の一つからも当時の繁栄ぶりを窺い知ることができる。
車は町を抜けて山の方へと向かっていく。目に映る景色が高くなるにつれて、太陽の光が増して原色の世界に近付いていく。「今日は特に青いね」と剛さん。海の色と空の色のグラデーションが美しい。花蓮ブルーと名付けたいくらい、ここでしか見られない特別な青色のように思う。
鯉魚潭という大きな湖に到着。突然「船に乗るよ!」と車を降りる剛さん。先の読めない展開に戸惑いながら、ライフジャケットを着る私。剛さんは近くにいる船の乗組員と親しげに話している。よくお子さんを連れてここにくるらしい。周りはのどかな景色が広がっていて、近くに住む人たちの憩いの場になっている。
これぞ本当の渡りに船だなぁ、としみじみした気持ちになっていると「じゃ、いつものように」と乗組員に声をかける剛さん。途端に船は激しいエンジン音と水しぶきをあげて、ものすごいスピードで湖を一周する。まるで遊園地のアトラクションに乗っているようだ。船を降りると、すたすたと車に乗り込む剛さん。なんという豪快さ……。
日本統治時代のことを知りたいのなら、と剛さんに案内され、慶修院に到着。ここは日本統治時代の1917年に「吉野布教所」として建設された真言宗高尾山のお寺だ。境内に入ると、台湾にいることを忘れてしまうほど、日本の風景が広がっている。
この辺りはもともと七脚川と呼ばれ、原住民族が住んでいた。日本による台湾統治後の1908年に、台湾原住民アミ族と日本人警察官との間で衝突が起こり、多くの犠牲者が出た。以降、台湾総督府は植民地統治と日本の農村の貧困を解消するため、積極的に花蓮での移民事業を推進した。
1910年、台湾で初めての官民移民村を七脚川に設立。村に移民した日本人のなかに徳島県出身者が多かったので、吉野川にちなみ吉野村と名付けられた。移住者とともに宗教が伝来したことで、布教所や神社ができた。日本人移民たちは慣れない台湾の土地での生活に苦労したが、布教所や神社を心の拠りどころとし、定住を続けた。
戦後、日本人が引き揚げた後は客家人や台湾人が住み、日本らしい吉野という地名も吉安に改められた。神社は取り壊されたが、吉野布教所は客家人により慶修院と改名され存続し、多くの人が訪れる観光地としても機能している。写真や展示をみながら、ここに眠る人、やってきた人、去っていった人に対して祈るような気持ちになる。剛さんに促され、手を合わせた。
間もなく台北に戻る電車がやってくる。剛さんとぶぶさんが花蓮駅まで送ってくれた。車に乗ってから一度もお財布をだせなかったので申し訳なく思い、コンビニでお金をおろし、幾ばくかお渡ししてから別れようと、車を降りて「ここでちょっと待っててください」とだけ伝える。すると剛さんはすぐに察して「そんなのいいから。お金のためにしたわけじゃない」と強い口調でピシャリ、そのまま車を走らせて行ってしまった。
後日、剛さんは花蓮日本人会の総幹事を務められていたり、与那国と花蓮市間の民間交流大使を務められていたり、多方面でご活躍されていることを知る。きっと多くの方が剛さんを頼りにしているのだろう。日本と台湾の懸け橋になっておられる方の背中を見た気がした。
出会いの時間から、別れの時間へ。空は青の原色から水に溶かされたような淡い色へと変容していく。窓からみえる景色を忘れたくなくて写真を撮ろうとすると、向かいに座っていた台湾人のおじさんから「もっと離れたほうが綺麗に撮れるよ」と声をかけられる。最後まで誰かの親切に触れて、泣きそうになる。
誰かに親切にされると、された側は別の誰かに親切にしたくなる。受けた恩を直接返すことができないときは、別の誰かに恩を送る。台湾で旅をすると、損得勘定ではない、人と人との繋がりに触れることが多かった。台湾には善の循環がめぐっている。なぜ?台湾の歴史や文化が人々をそうさせているのかもしれない。そのことをもっと知りたくて、今も台湾の旅を続けている。
─ 完 ─
文・写真=岩澤侑生子
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