ヤニグロ音楽祭~人口1000人の村にやってきたオーケストラとマエストロたち|イスタンブル便り 特別編
夏到来である。
日本は例年に増して厳しい暑さが続いていると聞いている。みなさまの健康とご自愛をお祈りしたい。
ところで、わたしは現在この原稿を灼熱のローマで書いている。
ジラルデッリ家は毎年夏になると、イスタンブルからイタリアまで車で移動する。夏の大半はイタリアで過ごすのである。このフォトエッセイは「イスタンブル便り」だが、7月、8月は、お許しを得て舞台がイタリアに移る。
* * *
「マエストロ、イタリアの山の上の村で、チェリストのアントニオ・ヤニグロを記念する音楽祭を企画しようと思っているんです。チェロだけでなくて、弦楽全般、ヴァイオリンも」
「ふむ、それで?」
「それで・・・、あの、そこで、何でもいいですからマエストロ、何か好きなこと、やっていただけませんか?」
一年半前、2月のある寒い晩のことだった。
コロナは先行きが見えず、イスタンブルでは厳しい外出禁止が続いていた。トルコの「外出禁止」とは、文字どおり一歩も外に出ることができない、厳しい制限だった。
電話の相手の「マエストロ」は、ベルギーにいた。ヴァイオリンの世界的巨匠、ボリス・ベルキン。ソビエト連邦出身、1970年代に西側に移住、バーンスタインやアイザック・スターンの薫陶を受け、アシュケナージが引退前に共演を望んだヴァイオリニストだ。娘ミーナのヴァイオリンの師匠として、旧知の仲である。
一年以上、音楽家たちは演奏の場を与えられない日々が続いていた。
そんななか、ジラルデッリ家では、突飛な、としか言いようのない計画が持ち上がっていた。ジラルデッリ家が毎年夏を過ごすイタリアの山の上の村で、音楽祭をしよう。
まだ何もない。
人も、資金も。あるのはアイデアと、ヤニグロの直弟子のチェロの世界的巨匠、アントニオ・メネセスの賛同、そして会場に使える建物。それも半ば廃墟だ。オンラインでないコンサートがいつ復活するのかさえ、わからない日々だった。実現するかどうか、誰にもわからない。いや、実現すると思う方が、酔狂な夢である。
断っておくが、わたし自身もパオロ騎士も、美術史を専門とする研究者だ。音楽祭の企画などにはまったくの素人である。その意味でも、このアイデアは唐突すぎるものだった。
だがもしそれが、コロナで壊滅的な打撃を受けたイタリアの、小さな村のために、なるとしたら。
どこかでそんな思いもあった。
* * *
はじまりは、その小さな村で、ジラルデッリ家の三兄弟が親戚から受け継いだ城館をどうするか、ということだった。従兄弟のフランチェスコから、面倒を見きれないから、と譲られたものだった。
18世紀建造、三階建、28室。付属の教会堂には、パイプオルガンまである。美術史・建築史を専門とするわたしたちにとって、そういう建物は研究の対象ではあっても、自分で所有するなどと想像したこともなかった。しかし、いきなりこれを譲られても、わたしたちのような大学の月給で暮らす家族に管理維持は並大抵ではない。
しかも建物は、約20年前にこの地方を襲った大地震のため居住禁止となり、廃墟の状態だった。
フランチェスコは置き土産として、建物復旧の工事費用のための、国の補助金の手続きをしてくれていた。そんなこんなで、工事が始まったのは3年前のことだった。
夏を過ごすのに泊まれる場所があればいい。最初はそんなつもりだった。だが、すぐに気がついた。
この建物は、個人だけで所有すべきものではない。
精神的拠りどころ、とまでは言い過ぎかもしれない。だが村のひとびとにとって、その城館、パラッツォ・タイアフェッリは、人口たった1000人の村の主要な文化財であり、文化的アイデンティティのありかだった。祝祭の日に振る舞いのご馳走をここで食べた、家族の誰かがここに奉公していた。 村の誰かしらが必ず、建物に纏わる、 思い出をもっている。主寝室には礼拝堂があり、そのしつらいなども、昔どおりに保たれているかどうか、村人たちは見たがった。
建築史という学問が通常あつかう建築様式や構造などの、建物の物理的な歴史、という前に、建物が生きてきた歴史、ひとびととともにあった歴史、というものに、わたしたちは直面したのだった。
* * *
「ヤニグロ」という名前を見てピンときた人は、かなりの音楽通だろう。 アントニオ・ヤニグロ(1918-1989)は、20世紀最大のチェリストのひとりとされる。カザルスの弟子で、現クロアチアを拠点とする弦楽合奏団ザグレブ・ソロイスツの創立者、現在第一線で活躍する多くの弟子を育てた。
ほとんどの人が知らないことだが、山の上の村は、ヤニグロ家の父祖の地だった。この「イスタンブル便り」に時々登場するパオロ騎士の、母方の親戚にあたる。
電話の向こうから、面白がっているようなベルキン先生の声が聞こえた。
びっくりするのはこちらの方だった。
「何でも好きなこと? ・・・ふふん、じゃあね、オーケストラ連れて行こう」
「ええっ? オーケストラですか? 人口1000人の、何にもない村ですよ? レストランすらありません」
「ミユキ、お聞き、音楽祭というのはね、人々の関心を集めなければだめだ。だから、大きなことをする必要があるんだよ」
そのときわたしは、ひとつのヴィジョンを与えられたのだった。
* * *
その一年半後、今年6月26日。
イタリアのモリーゼ州、モンターガノ村に、ほんとうにオーケストラがやってきた。オヴォ若者オーケストラ。翌日の演奏会を前に、広々と山々を見下ろす標高800mの村に、リハーサル演奏の音が響きわたった。
そして翌晩、モリーゼ州の州都カンポバッソのサヴォイア劇場。
ボリス・ベルキンとアントニオ・メネセス、ヴァイオリンとチェロ、二人の世界的巨匠をソリストに迎え、ダブルキャスト公演が実現した。指揮はドナート・レンゼッティ。ヤニグロ音楽祭の、それがオープニングとなった。
音楽祭は、ヤニグロ家の父祖の地、人口1000人のモンターガノ村と、その周辺の文化財を会場として企画された。
モンターガノ村の中世から続く居住地域ボルゴ、村外れにあるヤニグロ家ゆかりの12世紀建造、ファイフォリのサンタ・マリア教会、モリーゼ州セピーノの古代ローマ時代の円形劇場。そしてジラルデッリ家が受け継いだ城館パラッツォ・タイアフェリは、 チェロのマスタークラス会場、マエストロたちの宿泊先となった。
ありえないほどの低予算、弱小、まったくの手作り音楽祭だ。だが、音楽のクオリティだけは超一流である。はじめはアイデアだけ、次にマエストロたち、その弟子たち、幼馴染のニコリーノとガエターノ、それから村のひとびと、地元の商店、村長のジュゼッペ、村役場、地元企業、そして州の文化事業部、国の遺跡セピーノを通じて、イタリア文化省。
冒頭に書いた二人のマエストロたちの他に、日本からピアニストの佐藤卓史、ヤニグロの孫弟子にあたる若い世代の二人のチェリスト、アメデオ・チッケーゼとパオロ・ボノミーニがコンサート出演。フィンランドを拠点にするブラジル人作曲家、グスターヴォ・タヴァレスがモンターガノ村の教会の鐘を使ったチェロアンサンブル曲「内なる遊戯」を作曲、世界初演された。
文化財という「場」、「空間」への、地域のひとびとの意識を、音楽を起爆剤にして高める。建築・美術史の専門家としては、そういう願いもあった。
ちょうど一年前の夏、モンターガノ村に初めてやってきたチェロの巨匠、アントニオ・メネセスは、村の目抜き通りコルソを見下ろしながらこう言った。
「ヴェルビエでも、どこでも、いま世界の音楽祭と言われているものは、最初はほんとにちいさなところから始まったんだよ。とてもローカルな。たった一人か二人のアイデア、それが形を結んでいくんだ。ごらん、いまにこの村は、音楽祭を聴きにやってくる人でいっぱいになる。あの通りも、あの角も、家々の窓も」
それがわたしに与えられた、もうひとつのヴィジョンだった。
* * *
マエストロたちには、タイアフェッリ邸に滞在してもらう。
タイアフェッリ邸の修復工事をはじめる前、最初の考えはそれだった。
コンセプトはいい。
しかし、人口1000人の、レストランもない村。
世界的巨匠が滞在するような、満足なホテルがあるはずもない。
ならば、誰がもてなしをするのか?
こうして成り行き上、 このわたしがマエストロたちの胃袋を預かることになったのだった。一週間、朝、昼、晩である。
料理は好きだ。もちろん、世界の一流を満足させる腕前ではないことは、百も承知である。
だが、この腹ぺこの人たちを飢え死にさせるわけにはいかない。
音楽家という特殊な種類の生き物(ぶしつけな表現だが、それが正直な感想だ)について、今回初めて知ったことがいろいろある。
まず、つくづく肉体労働である。
超一流になると、規則正しい生活、毎日の練習による維持が要求される点で、トップアスリートとほぼ同じではないだろうか。アスリートと違うのは、現役でいる限り、それが一生続く点だ。
次に、本番前の生態も、さまざまである。
集中力を途切らせないために、何も食べない人、逆にエネルギーが必要なのでしっかり食べたい人、あるいは、少量の消化にいいものを食べる人。高カロリーのチョコレートやエネルギーバーを詰め込む人。はたまた、コーラに砂糖をぶち込んで飲む、という話も聞いたことがあるが、それは特殊なケースである。本番2時間前、3時間前、または直前。タイミングも重要だ。
それぞれのリクエストに合わせて、食卓を用意するのがわたしの任務である。
そして最後に、わたしが知る範囲内の話だが、みんな素晴らしく健康な食欲の持ち主である。
レストランのない村には、青果店すらもない(大半の人が、野菜は自家用に自作しているからでもあるが)。
だがウィークデーは、毎日午前中に小さなトラックがやってくる。そして毎週火曜日は、村の青空市の日だ。この日は、車で一時間ほどのアドリア海沿岸から、新鮮な魚を売るトラックもやってくる。
州都カンポバッソは車で15分の距離、大きな買い物はみな車で大規模ショッピングセンターに出かける。イタリアの田舎は、意外にも車社会、大規模資本に牛耳られているのだ。
それに反して、わたしの買い出しは徒歩2分の青果店トラックと、村に二軒ある食料品店だ。お金は村に落とす。そう決めていた。
新鮮な野菜、村の自慢のトマト、名産のチーズ、カチョカヴァッロに、地元のワイン。タイアフェッリ邸の食卓は、なるべく地元で調達できる食材、地元で作られたものを出すよう心がけた。だから料理もシンプルだ。
タイアフェッリ邸の女主人の特権は、音を立てないように朝食の片付けをしながら、マエストロの朝の練習に耳を澄ませることである。
* * *
音楽祭の最終日、マスタークラス受講の学生たちの発表会が、山々を見下ろす村のベルベデーレ(展望台)で行われた。いたるところで音楽に包まれた一週間を過ごした村人たちが、三々五々、集まってくる。子供も犬も一緒だ。
開演前、大変高齢の村の老婦人がわたしに言った。
「マエストロは有名な方だから、記念に一緒に写真撮りたかったの。そして言いたかったの。毎晩、ほんのひととき美しい感情を味わわせてくれてありがとうございます」
音楽がもたらしてくれる美しい感情。その言葉は、宝石のようにわたしのなかに折りたたまれた。
そして、マエストロたちの出発の朝。
タイアフェッリ邸の前に見送りに来てくれたお向かいのエミリオはこう言った。
「村に音楽家たちがきてくれて、とても嬉しかった、だけど、同時に悲しいですよ。だって明日からもう毎晩音楽が聞けなくなってしまうからね。ありがとう。来年もぜひ、きてください」
来年もぜひ。
リハビリか、はたまたコロナから生まれた新しい試みか。
賛同してくれるひとびとがいる限り、このちいさな音楽祭は、ジラルデッリ家の年中行事になりそうな予感である。
【お知らせ】
音楽祭オリジナル、ヤニグロの肖像ロゴ入りTシャツは、支援希望者に販売されている。購入すると支援者リストに登録され、音楽祭からニュースレターが届く。ご希望の方は info@festivaljanigro.it(日本語可)までお問い合わせを。ヤニグロ音楽祭ホームページはこちら:https://festivaljanigro.it
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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