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松重豊さんとの旅 はじめましての“禅問答”

俳優の松重豊さんが訪ねたのは、横浜市にある曹洞宗そうとうしゅう徳雄山とくゆうざん建功寺けんこうじのご住職で、庭園デザイナーでもある枡野ますの俊明しゅんみょうさんのもと。まずは、難しそうに感じる禅の教えと「禅の庭」の美のひみつを教えていただきました。(ひととき2022年1月号特集「松重豊さんと旅する 京都・禅の庭」より一部を抜粋してお届けします)

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枡野 ようこそおいでくださいました。

松重 今日はよろしくお願いいたします。こちらにうかがってまず驚いたのは、廊下もかわやもピカピカなこと。日頃の生き方すべてを見透かされているような気がします。

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まつしげ ゆたか/俳優。1963年、福岡県出身。大学卒業と同時に蜷川幸雄主宰のGEKISYA NINAGAWA STUDIOに入団、演劇活動を始める。近年では、テレビドラマや映画にも多数出演。著書に『空洞のなかみ』(毎日新聞出版)がある。NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』に出演。

枡野 目に見える汚れは、そのまま心の汚れです。周りを整えられなければ、自分も整えられないというのが禅の考え方。禅には「一掃除二信心」という言葉があります。信心する前にまず掃除をしろということですね。掃除は、皆さんがすぐに実践できる修行のひとつです。ところで、松重さんは、禅にご興味がおありとか。

松重 40歳くらいから興味を持ち始めました。とはいえ、坐禅も我流ですし、今日はいろいろと教えていただく気満々です。

「禅の庭」の美は、足し算ではなく引き算

枡野 禅に関心をもたれたのは、何かきっかけがおありだったのですか?

松重 若い頃は、がむしゃらにセリフに向き合うだけで精一杯でした。ところが年齢を重ねるにしたがって、いろいろなものを足し算して、説明過多になっていく傾向に疑問を感じ始めました。もっと観てくださる方に委ねてもいいのではと。そのヒントになるのが、禅の教えであり、「禅の庭」なんじゃないかと考えるようになりました。

枡野 悟りのふちに立たれたわけですね。

松重 悟りだなんてとんでもない。

枡野 自分の心と向き合うことも、悟りに至る大切な道程です。おっしゃる通り「禅の庭」をはじめ、日本の美というものは、足し算ではなく引き算にあると私は考えています。引いて、引いて、これ以上、引くものがないギリギリのところまでいくと、初めて本当に大事なものが輝きを増して見えてくるのだと思います。

松重 役者にとっては勇気がいることです。でも確かに禅に関する本を読み始めると、少しずつ執着する心が取り除かれていきます。最近では事前の役作りもあまりしなくなりました。今は現場で受け取った直感に、その場でひとつひとつ反応することを大切にしています。

枡野 それが禅でいうところの「無心」。なにものにもとらわれずに、心が自由自在でいられる状態です。禅では本来、すべての人間は一点の曇りもない清らかな心を持っていると考えます。でも成長するにしたがって我欲に縛られ、心が曇ってしまう。私はそれを「心のメタボ」と呼んでいます。

松重 なるほど、メタボですか。

枡野 身体的なメタボは他人の目から見ても認識できますが、心についた贅肉は自分で気づくしかない。禅のねらいは、贅肉のない心で日々の生活にまことを見出すことにあります。だから生活そのものが修行であるのです。

坐禅は自分自身と向き合う修行

松重 先ほどご住職に坐禅指導をしていただいた際、教えてくださったように真っ直ぐな姿勢を保つと、身体と心のバランスもとれるんだと実感しました。

枡野 坐禅は禅でいちばん大切にしている「行」です。実際、正しい姿勢で坐ると、頭の重みがすべて背骨にのり、内臓にも負担がかかりません。

松重 今日は短時間でしたが、今後もご住職のもとへ通って、正しい坐り方を身につけたいと心底思いました。

枡野 坐の字を分解すると「人」「人」「土」となりますよね。「人」と「人」は、今の自分と本来の清らかな自分とが対峙している様を表しています。そしてかつては野外で坐っていたため「土」を合わせています。やがて、室内でも坐るようになったので、マダレ(广)の「座」の字も使うようになりました。つまり坐禅は、今の自分でよいのかを、自分自身に問いかけ続ける修行なのです。

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坐禅する枡野住職と松重さん。曹洞宗の坐禅は「面壁めんぺき」といい、壁や障子などに向かって坐る

松重 昨今、多くの人が向き合っているのは、自分ではなくスマホですね。

枡野 まさしく。スマホをちょっと操作すればあらゆる情報が手に入る便利な時代になりました。一方で情報に右往左往させられ、自分にとって必要なものを見極めることが難しくもなっています。

松重 禅の視点から、ぜひこうした時代を生きるヒントを伝授いただきたいです。

枡野 大切なのは自分の頭で考える時間を持つこと。それには、自分にある程度タガをはめることが必要です。例えば、夜の何時にはスマホを手の届かないところに置いて翌朝までは触らないぞ! とか。2020年からのコロナ禍は考えようによっては、ある意味チャンスだったとも言えます。これまでの日常が制限されたがゆえに、自身の来し方行く末を考えた方も多かったのではないでしょうか。

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本堂西側の庭。限られたスペースながら無限の広がりを感じる

視点を変えれば、景色も変わる

松重 まさに初めての緊急事態宣言が発出された2020年の4〜5月は、なにもすることがなくなりました。それで僕はその時間を初めての本の執筆に充てることにしました。

枡野 『空洞のなかみ』ですね。

松重 執筆という作業に没頭することで、精神のバランスがとれたように思います。

枡野 松重さんは、書くという作業を通じてご自分と向き合ったわけです。コロナ禍のような非常時に大切なのは、今、目の前で起きていることをとらえる視点をどう変えるかです。松重さんは「演じる」から「書く」という視点に変化させられた。

松重 なるほど。たしかにそれで目の前の景色が変わって見えてきたのかもしれません。

枡野 発想の転換ですね。例えば、私が作庭する際は、斜面の土地だから庭は造れないと考えるのではなく、斜面をどう生かせばいい庭になるかと考えます。実際、いい庭になることが少なくないのです。

松重 今拝見している「釈尊成道しゃくそんじょうどうの庭」も素晴らしい景観です。しかし、これを10代の頃に恩師とともに造られたとうかがうと、驚きしかありませんよ。

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10代の枡野住職が師とともに造った「釈尊成道しゃくそんじょうどうの庭」(非公開)。成道とは、悟りを完成するという意味

枡野 じつは近年、少し手を入れました。

松重 ご住職でも、過去の作品は恥ずかしいものですか?

枡野 この庭を造った頃は、どうすれば見る方が興味を抱いてくださるか、と考えていたように思います。でも雲水修行を経て、それは違うと気づきました。「禅の庭」は、「本来」の自己と出会う装置です。かつて禅僧は、人間の計らいごとを超えた自然のなかにいおりを結び、自己と対峙していました。しかし、室町時代以降になると、京都などでは寺も増え、自然に囲まれて暮らすことが難しくなってしまった。そこで、寺院に自然の代わりとしての庭を築きました。それが「禅の庭」の始まりです。

旅人=松重 豊 写真=中田 昭
構成・文=橋本裕子

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再会を誓う桝野住職と松重さん。「釈尊成道の庭」にて

――この続きは、本誌でお読みになれます。仕事で京都へ行くことが多く、撮影の合間にお寺へ行くという松重さん。禅寺の庭に惹かれ、中でも龍安寺の石庭には強く感じるものがあるそう。桝野住職から「見る側の力量が問われる龍安寺の石庭」について話を伺ったのち、いざ京都へ向かいます。松重さんがこの旅で自らと対峙し、確信したこととは――。

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H01月号特集トビラ画像

■【特集】松重 豊さんと旅する 京都・禅の庭
●枡野俊明さん×松重 豊さん
はじめましての“禅問答"
●京都・禅の庭を旅する
西芳寺 正伝寺 龍安寺
●京都・禅の庭〔案内図〕
徳雄山 建功寺
神奈川県横浜市鶴見区馬場1-2-1
時:9時〜17時
休:水曜(春・秋のお彼岸、お盆、祝祭日を除く)
http://www.kenkohji.jp/k/

出典:ひととき2022年1月号




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