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雪解けの音|文=北阪昌人

音をテーマに、歴史的、運命的な一瞬を切り取る短編小説。第15回は、食品会社でこの春に大阪に転勤することになった女性が先輩に連れて行ってもらったバーで聴いた、ハンドパンという楽器の音。周囲からは「栄転」とお祝いされるものの不安が消えなかったゆかりは、演奏を聴いているうちに、遠い昔に聴いた水琴窟の音を思い出す。(ひととき2023年3月号「あの日の音」より)

「ゆかりさん、もう一軒、いいかな?」

 先輩の新見令子さんは、そう言った。

「はい」と私は答える。

 この春、私は大阪の支社に異動することになった。新見さんは、個人的に送別会を開いてくれた。一軒目は、懐石料理。二軒目に新見さんが連れていってくれたお店は、路地裏にあるビルの地下。抑えられた照明の素敵な雰囲気のバーだった。カウンターに並んで腰かける。

 今回の人事は、まさに青天の霹靂へきれき。課長に昇格しての大阪転勤なので、同僚たちは栄転だとお祝いしてくれたけれど、私自身は、不安しかなかった。入社して十二年目。「どんなふうに会社人生をおくるのか?」。そんな質問をあらたに突き付けられたような気持ちになる。

「大阪支社では、新しい冷凍食品の開発やマーケティング、販路の開拓まで、いろいろやることが増えると思うけど、きっと、いい経験ができると思う」

 新見さんは、静かに低い声で言った。

 そう、食品会社に就職したのは、新しい商品を作りたいと思ったからだ。やっと希望がかなう。もっと前のめりになっていいはずなのに、臆病な私が顔をのぞかせる。

 そのとき、音が、聴こえた。ピチョン、カラン、コロン。振り向くと、バーの奥がステージになっていて、そこで演奏が始まった。

「ハンドパンっていう楽器。あの音を聴くとね、ふわっと心が軽くなるの」

 新見さんが微笑みながら、言った。

 大きなお鍋のような、UFOのような鉄の楽器。女性奏者が手で触れる。

「実は、ここだけの話、私もハンドパン、始めたの。音がちゃんと出るまで大変だったけど、二〇〇一年にスイスで生まれたと言われている、まだまだ新しい楽器だから、けっこう自己流で楽しめて、面白いの」

 新見さんは嬉しそうに話した。女性奏者の長い指がまるで魔法の扉を開くように素早く動く。

 この音……どこかで聴いたことが……。

 そうだ、あれは小学四年生の時。私は岐阜県美濃市に引っ越した。初めて登校する日は、あまりの緊張と不安でお腹がキリキリ痛んだ。

 転校二日目にいきなり遠足だった。誰も知らないクラスメート。気が重い。リュックを背負いながら行きたくないと思った。訪れたのは江戸時代中期に建てられ、明治初期に増築されたと言われている町家、旧今井家住宅。その奥に水琴窟すいきんくつがあった。ピチョン、カラン、コロン。清水がしたたる涼やかな音を聴いたら、雪が解けていくように、不思議と不安が消えていった。

 今、私は、あのときと同じ音に包まれている。

 ピチョン、カラン、コロン。

「ゆかりさん、あなたなら、きっと大丈夫よ」

 新見さんが、優しく言ってくれた。

 その声がハンドパンの音と一緒に私の心の奥底にしみこみ、いちばん柔らかい場所に届いた。

「はい、がんばります」

 ハンドパンの演奏は、心地よく、私の心を流れ続けた。

※この物語はフィクションです。次回は2023年5月号に掲載の予定です

文・絵=北阪昌人

北阪昌人(きたさか まさと)
1963年、大阪府生まれ。脚本家・作家。「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FMほか38局ネット)などラジオドラマの脚本多数。著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)など。

出典:ひととき2023年3月号

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