隈研吾建築と手仕事の故郷を訪ねて:エスキシェヒルとキュタフヤ|イスタンブル便り
「先生、今学期も見学旅行しませんか?」
秋からの新学期になって、担当する新体制の講座「建築史III」でアシスタントのオイクからそう問いかけられた時、次はエスキシェヒル、というのが頭にあった。
「古い都市」を意味するエスキシェヒルは、実際には新しい街だ。共和国初期の新しい都市計画で作られた街区が大部分を占める。アナトリアの他の都市に漏れず、居住は紀元前1000年に始まったらしいが、実際に行くとそれほど深い歴史を感じる場面は少ない。
だが、一度学生を連れてぜひ訪れたいと思っていた。日本の建築家、隈研吾氏の作品、2019年にオープンしたばかりのオドゥンパザル近代美術館があるからだ。
オスマン建築、ビザンチン建築、セルチュク建築、そしてギリシャ建築。トルコは歴史的に建築王国だ。古代から近代まで、トルコにあるものだけで建築史の大筋をたどることができるほどだ。
しかし、現代建築となると話は別である。もちろんトルコにも、優れた現代建築家がいる(このエッセイでも、おいおいご紹介してみたいと思っている)。だが、世界的に活躍するスター建築家の作品は、なかなかないのである。近年でいえば、アメリカ人建築家フランク・ゲリーによる中心部のリノベーション計画の話があったが実現せず、イラク人女性建築家のザハ・ハディードがマスタープランを設計したが頓挫。実施案としては、イタリアの建築家レンゾ・ピアノが手がけた近代美術館、イスタンブル・モダンが来年2023年にリニューアルオープンするのが初めてだ。
そんななか、日本の国立競技場の設計に携わった建築家、隈研吾氏の作品が、トルコの、しかも地方都市にある、というのは、建築学生たちにとってたいへん貴重なのだ。後から聞いた話だが、イスタンブルの建築学生のなかには、鉄道に乗って「詣で」に行く若者も少なくないらしい。たいへん良い評判を聞いていたが、私自身、行ったことがなかった。この美術館をメインに据えて、車で1時間ほどの距離にあるキュタフヤと組み合わせてはどうか、と思ったのである。
キュタフヤは、18世紀ごろから勃興した陶器の町である。オスマン帝国時代のタイル(チニ)といえば、16世紀、黄金期のイズニックが有名だ。柿右衛門の赤にも通じる、技術的に実現困難な「珊瑚の赤」と呼ばれる鮮やかな赤の色の秘密は、それを実現した名もなき名匠とともに没した。陶土も尽きた後、やきものの町としてのイズニックは廃れた。
各地にそれぞれのやきもの生産は散見されるが、オスマン帝国後期に評価が高いのは、エーゲ海岸のチャナッカレと、アナトリア西部の町キュタフヤだ。いずれも、陶器に適した土を産したことによる。生地に水晶の粉を混ぜ込んだ高価なチニとは異なる、低温度(750-800度)で焼成する陶器である。前回ご紹介した、エルサレムの「岩のドーム」を飾るタイルを作ったアルメニア聖教徒カラカシアン家も、もとはこのキュタフヤの出だ。
建築史の授業で学ぶ、19世紀末英国のアーツ・アンド・クラフツ運動と引っ掛けて、同時代のオスマン帝国では何が起こっていたか、学生に考えて欲しい、というのもあった。19世紀末から20世紀初頭、オスマン帝国末期からトルコ共和国初期にかけて、「第一次国家建築運動」というのがある。当時の欧州で一般的だったボザール風の構造に、オスマン的モチーフをあしらった建築様式である。キュタフヤ産のタイルはオスマンのアイデンティティの表現として、重要な役割を果たした。日本の<民芸>との関連でも語られる英国のアーツ・アンド・クラフツ運動、トルコでも別の動きを生み出していたのである。ふだん、ものを作ったりする人と接することがない、という学生たちに、ものづくりの現場を見て欲しい、とも願っていた。
だが、誰を訪ねられるだろう? キュタフヤには何度か訪れたことがある。最初はまだ日本に住んでいた1992年、名人だと評判の高いストゥク親方を訪ねた。イズニックでも同じ手法が使われていたという伝統的焼成法クユ・フルヌ(「井戸窯」)を研究し、復活させた人物だ。そんなことも知らずふらりと訪ねた学生のわたしに、小さな店先でニコニコしながら「日本で展覧会をしたんだよ」と話しかけてきて、驚いたのを覚えている。ユーモラスな人柄は、作品にも滲み出ている。ストゥク親方はのちに、ユネスコ世界遺産の技術保持者(いうなれば人間世界遺産)に指定された。
しかし、ストゥク親方が没した今、誰がいるだろう? キュタフヤ市役所文化部や、トルコ文化省キュタフヤ支部などにも問い合わせたが、これだ、という人物にどうも行き遭えない。
そんなある日、古い知り合いにばったり出くわした。招待状をもらったので覗いてみようと初めて出かけたイスタンブルのアンティーク・フェアである。スコットランド人のジョン氏とトルコ人奥さまのベリンさん、英国ベースでトルコの美しいものを紹介する雑誌「コルヌコピア(「豊饒の角」の意)」を運営している。お二人とも、超一級の鑑識眼と趣味の持ち主である。トルコにはこんなにも素晴らしいものがあるのに、どんどん消えてゆく、価値をわかる人がいなくなっていく。それを、少しでも遅らせることができたら。そう思って(この雑誌を)始めたの。そんな悲痛な願いを、以前ベリンさんから聞いたことがあった。
ひさしぶりの再会を喜んだ後、そういえば、と、相談してみた。イスタンブル工科大学で教え始めて5週間後、コロナですべてが遠隔になって、なんのために建築史を教えるのか、と考えた時期があった。そして、あるとき急に思い至った。自分が教えているのは、トルコでトップの大学、いわば、将来リーダーになっていく人々である。ならば、このひとたちの目を、美しいものへの愛、手仕事の価値へ、一人でも多く開くことができれば。もしかしたら未来は少しだけ、変わるのではないか。そして紹介されたのが、イスマーイル親方である。電話をすると、日曜日にもかかわらず、受け入れてくださるという。こちらからは、実際に作っているところ、できれば成形や絵付けをしているところを見せて欲しい、とお願いした。
さて、行き先は決まった。だがわたしには、密かに考えていたことがあった。オドゥンパザル近代美術館の建築家、隈研吾氏ご本人と、学生たちを繋ぐことはできないだろうか? 建築家本人との対話は、学生たちにとってかけがえのない経験になるだろう。建築界に顔の広い東京の友人、Y氏に相談してみた。もらったアドレスにメールを書いてみると、ご本人から快諾のお返事をいただいたのである。トルコの学生たちが、わざわざ見に行くのを喜んでくださっているようである。まさに、持つべきものは友である。
そして当日。大学から支給されたバスが待ち合わせ場所を間違えて出発が1時間半も遅れたり、隈氏となかなか繋がらなかったり、紆余曲折はあったが、ともかくも、美術館の建物の中から、移動中の車の中にいた隈氏と繋がった。日本では夜9時半という時間だった。
「学生さんたちの質問にお答えしましょう。何か聞きたいことはありますか?」
「隈さんは、設計をするとき、どんな用具を使っていますか? デッサンからですか、それともコンピュータのプログラムなどから発想しますか?」
「あなたは夢想家ですか、それとも現実家ですか? つまり、デザインの発想をするとき、自分の想像力から触発されますか、それとも現実の生活や文化といったようなものからでしょうか? 」
「隈さんのインタビューのひとつに、<空白をうまく使うこと>という言葉を読んだ記憶があります。あなたの建築作品の、透明・半透明なアプローチ、あるいはコンクリートの壁でなく光を使うという手法は、このような考え方と関係がありますか?」
隈氏は、設計プロセスでは、あるアイデアが浮かんだ後、一緒に仕事をするチームと意見交換し、その過程を大切にしていること、自分のイマジネーションよりも現実的な要素から発想することが多い実務家であること、など、流暢な英語でひとつひとつの質問に丁寧に答えてくれた。そして最後にこう締めくくった。
「もっと聞きたいことがあったら、ぜひ日本に訪ねて来てください、歓迎します」
二階部分を見学していた時、曇り空だったのが一瞬晴れ、展示室に日光が差した。その時、一瞬自分が日本の美術館にいるような錯覚を覚えた。階段の角の処理や、動きによって変わる視点から眺められる街の風景など、美術館の建物の細部隅々にまで神経が行き届いた設計もさることながら、それをトルコの地で実現した施工監理のクオリティに舌を巻いた。
「これはやっぱり、人生で一度だけ巡り合うチャンス、ですよね、先生」
隈氏とのセッションを終えた後、学生たちがそう言ってくれたのは嬉しかった。だが、これを一生に一度なんて言うようではいけない。日本を遥かな遠いところだと思わず、ほんとうに訪ねて行って、夢を現実にする学生が一人でも多く出ることを願う。
* * *
翌日、キュタフヤへ向かった。
車で1時間強の距離、キュタフヤの町が近づくと、街道沿いに立ち並ぶ工場が目に入って来た。タイルやレンガ、衛生陶器など、トルコの建設用陶器メーカーの主だったものが、ほとんどある。伝統的な陶器の町である以前に、キュタフヤは、建設用陶器の一大生産地なのだった。注意してみると、昔懐かしい1930年代、40年代の建築様式を留める工場などもある。つまり、オスマン帝国時代から途切れなく、時代に合わせて大量生産品にも対応し、変化して来た陶器の街だったのだ。 日本でいうと、瀬戸のような存在かもしれない。バスの中で、学生に注意を促した。
「将来あなたたちが建築を設計するときに、実際の現場で使うことになるのは、大半がこういう工場で作られる大量生産品。けれどこれからみる手仕事と、どこが違うか、よく見て欲しい」
キュタフヤの旧市街に入ると、がらりと雰囲気が変わった。昨今いわゆる「インスタ映え」を狙って、トルコでは(「でも」か?)表面だけ木材を貼り付け、けばけばしい色で塗った木造伝統家屋「風」が人気だ。だが、これは本物である。
イスマーイル親方は、そんな街区の中の、どっしりとした木造邸宅の前で出迎えてくれた。
「風(空気)、水、火、土。自然の基本要素を組み合わせたものが、陶器の芸術です」
色鮮やかな作品の並ぶスペースで、早速講義が始まる。 オスマン帝国伝統の「チニ」と一般の陶器との違い(イスマーイル親方のレシピは、水晶の粉85%に7.5%の粘土、7.5%のガラスの粉を入れるのだそうだ)、絵付け、釉薬、色彩を生み出す化学反応、など、豊富な例を挟んでどんどん進む。
「土は、どこのものをお使いですか?」
「ビレジック、あるいは近くのアフィヨン近郊から来ます。水晶とガラスの粉は、ヨーロッパからの輸入品ですが……。それを自分のレシピで注文して作らせます」
日本では、粘土は輸入品が多いと聞く。
隣の部屋の絵付け工房には奥様のハティージェ・ハヌムが待っていて、絵付けの実際を見せてくれた。わたしが片方でイスマーイル親方の話を聞いているうちに、数人の学生が見よう見まねでやり始め、ワークショップが自然発生した。
イスマーイル親方は、キュタフヤ旧市街を歩いて国立陶器博物館に案内してくれた。重要作品が所蔵され、キュタフヤ陶器の歴史をたどることができる。途中、アンティーク市場があってかなり心惹かれたが、ここは我慢(学生の中には、気に入ったものを値切って買った人もいたらしい)。
昼食後バスに乗り、成形工房を訪ねた。以前は陶器生産のすべての過程が、旧市街の絵付け工房と同じ場所にあった。だが数年前、市役所が作ったこの陶器制作団地に引っ越して来たそうだ。街の暮らしと陶器制作が分断され、昔ながらの環境とは随分違う。外から来るとちょっと残念な感じもするが、以前は住宅の地下など劣悪な環境だったのが、働く環境は良くなったそうだ。
イスマーイル親方は、一点ものの作品を作る一方で、陶器団地に24時間ノンストップで窯を稼働させる小工場も経営しているそうだ。
「経済的な利益は、そこから上げています。でなければ、芸術作品を作ることは難しい」
陶芸作家の背景も多様化している。日本に似て、親から子へ、代々受け継がれるのが伝統だった。ところがイスマーイル親方は、キュタフヤ出身だが、イスタンブルの大学で陶芸学科を卒業した、陶芸家の家柄とは関係ない作家だ。
「イスタンブルで勉強したから、トルコを代表する目利きやコレクターと出会い、国際的なキャリアが開かれました。大学で勉強していなかったら、今の自分はなかったと思う」
それに反して、成形工房で待っていてくれたハーカン親方は、たたき上げの職人だ。
「子供の頃に工房に出入りしていて、面白そうだと思ってやり始めました。中学を卒業してすぐ弟子入りして、そうですね、10年ぐらいは見習いです」
「すごく辛抱のいるお仕事ですよね?」
「辛抱というよりも、愛が必要です。好きでなければ、できない仕事です」
ハーカン親方の元では、大学を卒業した女性が、見習い助手として働いていた。学生たちが見守る中、するすると細首の花瓶を作って見せてくれた。
「今日は、日曜日ですがハーカン親方に出てきてもらいました。なぜならイスタンブル工科大学の、将来建築家になるあなた方が、キュタフヤの陶器に興味を持ってくれたと聞いたからです。あなたたち若者は、これから未来を作っていく人たちです」
イスマーイル親方がいう。
「出来上がったものを見て、これちゃんと中は空洞になっているんですか? と聞かれることがあります」
「あっ! そんな!」
わたしがいう暇もなく、ハーカン親方はスッと糸を当てて、出来上がった花瓶を縦に真っ二つに割って見せた。すると、授業をとってないのに今回も見学旅行だけやってきたサメット君が、「やってみたいんですけど、やらせてもらえますか?」と、手を挙げた。
建築の学生には、手先が器用な子が多い。パースで絵も描かなければならないし、マケットを作るのも、全部手作業だ。なので、得意分野だと思うのだが、陶器の成形はぜんぜん違った。心の中で思い描いている「形」と、実際の体の動きとが、なかなか連動しない。頭脳と身体の鍛錬。心技一体とは、なかなか哲学的な問題を孕んでいる。サメット君のおかげで、よくわかることができた。
陶器団地からさらに車に乗り、トルコを代表する磁器会社のコレクション美術館へ。そこで印象深い人に出会った。係員として案内してくれたアフメットさんは、伝統の焼成方法クユ・フルヌ(「井戸窯」)を経験した、最後の世代に当たるそうだ。
「クユ・フルヌでの陶器焼成が廃れてしまって、ほんとうに残念です。せめて記録だけでも、ちゃんと残せたら」
わたしがそういうと、アフメットさんは言った。
「だけど、何日も作りためたものが火入れの失敗で、全部煤で真っ黒になって駄目になってしまったり、クユ・フルヌはほんとうに大変でした。今は電気で、温度も全部調整できるし、簡単でいい時代になりました」
「ほんとうにそうでしょうか? だけど、そのご苦労には、別の、精神的な価値があったのでは?」
わたしがそう畳み掛けると、アフメットさんをはじめ、その場にいたその世代の人々が皆、ほんのひととき、ほろ苦く笑った。
* * *
「ねえ先生、クユ・フルヌは無くなってしまったけど、記録を映像で撮ったり、そういうこと、できるといいですよね」
心づくしでよくしていただいたキュタフヤの人々に 別れを告げて帰り道、バスの中で、働きながら二つ目の学士号取得にがんばっている社会人女子学生が話しかけてきた。
「そうね、それは、これからあなたたちが考えて、やることだと思う。クユ・フルヌでやきものを作る人が今はいなくなったけど、将来誰かがやりたいと思った時のために、経験者から記録をとって残しておくことは、わたしたちができる大事な役割よね」
風と、水と、火と、土と。その「火」が、蘇ることを願うのである。
* * *
後日談がある。イスタンブルに帰った翌々日、イスマーイル親方から連絡があった。わたしたちの見学旅行が、キュタフヤの地方新聞の表紙を飾ったのだという。トルコの地方へ行くと時々あるのだが、ふだん行かないような人が来ると、ニュースになるのである。学生たちは、驚きとともに、照れ臭そうにしていた。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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