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横浜の歴史を体感!「氷川丸」と「帆船日本丸」の船内に潜入しよう|オトナのための学び旅(6)

この連載オトナのための学び旅は、カリスマ講師として知られる馬屋原うまやはら吉博よしひろさんが日本各地の名所・旧跡を訪ねる旅のコラムです。歴史を巡る“知的な旅”をぜひ一緒にお楽しみください。

今回訪れたのは、それぞれの「戦争」を生き延びた2隻の船「氷川丸」と「帆船日本丸」なのですが、その前に、横浜の歴史を簡単にまとめておきたいと思います。

ペリー2度目の来航、交渉の舞台は横浜

「いやでござんすペリーさん」の語呂でおなじみの1853年6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れます。日本に開国と通商を迫る大統領フィルモアの親書を、幕府に受け取らせるための来航でした。

当時、幕府で老中首座を務めていたのは30代半ばの阿部正弘。親書の受け取り自体を拒否したいのが阿部の本音だったかもしれませんが、そんなことはペリーも百も承知。その気になれば江戸の町を燃やせる軍事力を背景に、浦賀奉行に親書を受け取らせることに成功し、返書を受け取るために来年また来ると言い残して、黒船は水平線の向こうに消えていきました。

ペリーの再来航は翌1854年の1月のことでした。阿部からすると「早いよ!」というのが正直なところだったかもしれませんが、軍艦の数も4隻から7隻に増えており、何が何でも日本に開国を迫るというアメリカ側の強い意志を感じさせる再来航でした。

せめて東京湾の入り口の浦賀で交渉にあたりたいと考えていた幕府に対し、容赦なく湾内に侵入するペリー艦隊。交渉の舞台に選ばれたのは、沿岸部の水深が深く、大型船の停泊に適していた横浜村でした。

武蔵国久良岐くらき郡横浜村。当時、100戸程度の村民が農業と漁業を営んでいたこの小村は、17世紀に埋め立てで農地を増やした村でした。17世紀は全国で一気呵成に新田開発が進められ、全国の耕地はそれまでと比べて約2倍になっています。埋め立ての様子は「帆船日本丸」の前にある横浜みなと博物館の展示で詳しく知ることができます。

1854年3月、小学校の教科書にも登場する「日米和親条約」が締結され、下田と箱館の開港などが決まり、いわゆる「鎖国」は終わりを告げます。ペリーは薪や水の供給などを含む「開国」そのものの優先順位を上げていたようで、このタイミングでは「通商」までは強く踏み込んできませんでした。

ちなみに阿部は、1857年に39歳の若さで急死しています。死因については諸説ありますが、政権の中枢で凄まじいストレスにさらされていたのはたしかだろうと思われます。

アメリカ人が気に入った横浜、港町として発展

さて、ペリーのあとを継ぐかたちで通商のための交渉を任されたのは、日米和親条約に基づいて総領事として下田に赴任してきたハリスでした。

1858年に締結された日米修好通商条約を巡る交渉にあたっては、「当初、幕府は神奈川の開港を約束していたが、実際にはその隣の横浜を開港した」という説明がされることがあるのですが、ここについては、安藤優一郎著『東京・横浜 激動の幕末明治』に詳しく記されています。

当初、関東圏においてハリスが開港を要求していたのは江戸と品川の港でした。しかし、幕府としてさすがにそれは受け入れがたいということで、神奈川でどうか、という話になっていったようです。

ここでいう神奈川とは神奈川みなと、現在の神奈川県横浜市神奈川区、横浜港の少し北に位置する港を指します。周辺は神奈川宿。東海道において、江戸の日本橋を出て、品川・川崎に次ぐ3番目の宿場としてにぎわいを見せていた宿場町でした。

江戸や品川に比べればまだまし、ということで、いったんは神奈川で合意した幕府でしたが、神奈川を開いてしまうと外国人と日本人の接触が増えることが予想されます。当時、幕府は外国人の活動を居留地内に制限し、日本人との接触はできるだけ禁止しようとしていました。

そこで、あとから、神奈川湊とつながった横浜を開港地とすることに決めたようです。当然、幕府の対応にハリスは激怒するわけですが、おもしろいのは、このあとアメリカ本国からきた商人や船乗りたちが続々と横浜に住み始めたことです。

すでに発展していた神奈川よりも、まだ何もない横浜のほうが、倉庫や住居の建設などを含む開発を進めやすかったのかもしれません。半ば自国民にハシゴを外されるかたちでハリスも譲歩せざるを得なくなり、ここから港町・横浜の発展がはじまります。開港から5年で、横浜の人口は1万2千人程度まで増えたとのことです。

空襲を耐え抜いた「ホテルニューグランド」

こうした発展をみた横浜の街ですが、近くの東京と同じく、2度、壊滅的な被害を受けています。1923年の関東大震災と1945年の横浜大空襲です。

元町中華街駅から山下公園に行く途中にたたずむ「ホテルニューグランド」。歴史を感じさせる西洋風のクラシックホテルですが、このホテルの開業は1927年(昭和2年)、関東大震災から4年後のことです。

ホテルニューグランドの本館は、式典の最中などを除き、見学が可能です。ホテルのシンボルでもある大階段や2階のザ・ロビーの見ごたえのある素敵な空間は一見の価値ありです。

中に入ると、その華やかさに圧倒されますが、それとともにとてつもない重厚感が漂っていることに気付きます。とにかく壁が厚く、柱が太い。再び同じような震災に襲われても絶対に倒壊させない、震災で壊滅したばかりの街に生まれたホテルに込められた固い決意が伝わってきます。

その甲斐あってか、このホテルは、1945年5月29日の昼間に横浜の街を襲った横浜大空襲にも耐え抜き、現在にその姿を残しています。

実はその数年前の1937年(この年は日中戦争が始まった年で、アメリカとの対立はまだ本格化していない時期です)、後にGHQの長官として日本を治めることになるマッカーサーが、新婚旅行でこのホテルを利用しています。そのときの思い出もあったのでしょうか。戦後、彼は真っ先にこのホテルを接収し、進駐軍の最初の拠点としました。彼が好んで使った315室は、現在も「マッカーサーズスイート」として宿泊可能です。

貨客船から病院船へ 「氷川丸」の歴史

さて、前置きがだいぶ長くなってしまいましたが、ここからはそんな横浜の街のシンボルとなっている2つの船のお話です。

ひとつは、先のホテルニューグランドのレストランの窓からも見ることができる「氷川丸」。もうひとつは、ランドマークタワーのふもとに鎮座する「帆船日本丸」です。

この2つの船は奇しくも同じ年、1930年に竣工しています。

日本郵船・氷川丸は、外洋を渡る貨客船として、横浜の造船ドッグで誕生しました。アールデコ様式の豪華な内装が施された氷川丸は、竣工後、日本とアメリカ・シアトルを結ぶ航路で、多くの要人を乗せながら華やかな時代を送ります。

氷川丸

やがて、1937年に日中戦争がはじまり、1939年に第二次世界大戦がはじまると、氷川丸は逓信省に徴用され、日本在留の外国人をシアトルに、アメリカ在留の日本人を横浜に送る任務にあてられます。そして、その後、黒い船体を真っ白に塗り替え、大きな赤十字マークを背負う病院船に姿を変えました。

氷川丸は、終戦までの3年半で、東南アジアの島々を中心に、計24回の航海で3万人にのぼる戦傷病兵を収容し内地へ輸送したそうです。もともと厳しいシアトル航路のために建造された頑丈な船体は、途中、3度にわたる触雷に耐え、ほとんどの大型船が沈むなか、氷川丸は最後まで耐え抜き、戦後は復員輸送の任にあたりました。

1947年まで、軍人・民間人あわせて3万人近い人々が、氷川丸に乗って再び日本に帰ってくることができました。もっとも悲惨だったのは中国東北部・北朝鮮からの引揚げだったそうで、故郷を見ることなく船内で亡くなった方も少なくなかったとのことです。

1951年、サンフランシスコ平和条約が締結され、GHQによる占領政策が終わりを告げると、氷川丸は戦前の貨客船時代の姿を取り戻し、ニューヨーク航路、欧州航路に配船され、1953年にふたたびシアトル定期航路に戻ります。

船内の展示資料によると、シアトル航路復帰のきっかけとなったのは、冷戦下の世界においてアメリカの上院議員フルブライトが企画した奨学制度だったそうです。現在も続くこのプログラムを利用してアメリカで学ぶと決めた多くの若者を乗せて、氷川丸は太平洋を往復しました。

やがて時代が進むにつれて、旅客輸送においては航空機が、貨物輸送においても専用線の利用が拡大していくなか、氷川丸は1960年に引退。現在は重要文化財に指定されて、山下公園のほとりに停泊、一般公開されています。豪華な一等客室や食堂も趣深いですが、下層まで入ることができる機関室の見応えもなかなかです。

食堂
機関室

船員養成の練習船としてつくられた「帆船日本丸」

さて、もう1隻の船はランドマークタワーのふもとにたたずむ「帆船日本丸」です。

こちらは船員を養成するための練習船として神戸の造船ドッグで作られた船です。当時はまだ飛行機での移動が一般的ではなく、航海のニーズは今より大きかったわけですが、船乗りを訓練するための立派な練習船が存在せず、訓練時の海難事故があとを絶たなかったようです。1927年、鹿児島の水産学校の練習船が銚子沖で遭難し、生徒・職員53名が行方不明になるという痛ましい事故を経て、日本丸の建造が決まりました。

1930年から1941年にかけて、主に太平洋で多くの船乗りを育て上げた日本丸でしたが、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発すると、太平洋での外洋訓練はできなくなります。帆装を外され灰色に塗りかえられた日本丸は、船員の訓練を続けながら、瀬戸内海や大阪湾を中心に石炭などの物資の輸送に励みました。

沈むことなく終戦を迎えた日本丸は、戦後、GHQの管理下におかれ、氷川丸と同様に大陸や東南アジアに残された数百万人を越える日本人の帰還輸送に従事します。船内で当時の写真の数々を見ることができますが、当時の人々の胸のうちを考えると、なかなかにくるものがあります。

1950年の朝鮮戦争の際には、釜山から約3,000人の米軍人や韓国避難民を輸送し、1953年には太平洋の島々での遺骨収集任務に就きました。激動の時代に、課せられたミッションを粛々とこなしていった船と船乗りたちに頭が下がります。

54年間で、地球45.4周分の距離(183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育てた日本丸は、訓練を新日本丸に引き継ぎ、1984年に引退しました。現在もみなとみらい21地区の石造りドックで、重要文化財として一般公開されています。

いずれも横浜の街のシンボルとして多くの人に愛されている船ですが、あらためてその激動の歴史を頭に入れてから観に行くと、展示の内容も頭に入ってきやすいかもしれませんし、新たな発見があるかもしれません。次に横浜を訪れたときはぜひ、外から雄姿を眺めるだけで満足せず、中まで入ってみるのはいかがでしょうか。

文・写真=馬屋原吉博

馬屋原吉博(うまやはら・よしひろ)
中学受験専門のプロ個別指導教室SS-1副代表。中学受験情報局「かしこい塾の使い方」主任相談員。筑駒・開成・桜蔭をはじめとする難関中学に多くの生徒を送り出している。必死で覚えた膨大な知識で混乱している生徒の頭の中を整理し、テスト・入試で使える状態にする指導方法が好評。『今さら聞けない!政治のキホンが2時間で全部頭に入る』(すばる舎)、最新刊『今さら聞けない!世界史のキホンが2時間で全部頭に入る』(すばる舎)等著書多数。中学受験生&保護者向けサービス『SS-1テラス』にて、授業やトークライブをオンライン配信中。

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