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平安の悪女に花束を 藤原薬子の素顔|日本古代史の謎を読み解く

愛し愛された男が天皇になりさえしなければ、これほどまでに悪評を得ることはなかったろう。天皇の寵愛を背景にその振る舞いは専横を極め、やがてはクーデターを主導、挙句に服毒自殺の最期を遂げたという。稀代の悪女と名高い藤原薬子くすこ。その素顔とははたして──。

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歴史の真相に迫る名著がついに電子書籍化!

〝傾城〟の女は真実か

 平安京から平城京への遷都の影には、ひとりの女性がいた。

「いやいや、奈良の平城京から京都の平安京への間違いでしょう」と思われた読者もいるだろう。だが、実際に時計を逆回転させるようなことが起きていたのだ。

 ご存じのように、桓武かんむ天皇による平安京への遷都は794年。それからわずか15年後の810年に、桓武天皇の皇子の平城へいぜい天皇(当時は上皇)が、平城京へ都を戻すことを企図し、実行寸前となった。しかし、同じく桓武天皇の皇子の嵯峨さが天皇が直前で計画をつぶした。

 この国家を二分する事件を引き起こしたのが、日本史を代表する悪女として知られる藤原薬子とされる。彼女の名前から、事件は「薬子の変」とよばれている。

 日本史上最低の悪女——。関連の史料や遺跡は少ないが、藤原氏の娘として生まれた薬子の前半生は、貴族の娘としてそれなりに幸せだったようだ。

 生年は不明ながら、764年との説が有力である。平城京で生まれたことはまず間違いないだろう。

 父の種継たねつぐは、桓武天皇の側近としてメキメキと頭角を現していたが、母(薬子の祖母)の身分の低さからすれば、娘(薬子)をいきなり天皇や皇太子の妻につけられるほどではなかった。そこで嫁ぎ先に選ばれたのが同じ藤原氏の男だった。薬子は三男二女をもうけた。

 薬子が20歳前後になるまでを過ごした平城京跡である奈良の町を歩いてみた。

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 正倉院や東大寺の大仏などの神社仏閣はいうまでもなく、奈良の町は、今でも当時の町割りを体感できる。アスファルトの下には、薬子たちを乗せた牛車が通った道があるのだろう。1200年以上たっても都市としての構造を保っているのは、当時も安定した良好な地だったことをうかがわせる。

 この間、桓武天皇の治世のもとで、時代は大きく動いていた。史上に残る最大の事業といえば、遷都だ。当初は、平安京ではなく、少し西の長岡京(京都府)が候補地だった。この一大プロジェクトの担当者に抜擢されたのが薬子の父・種継である。

 710年の「開都」以来、数十年かけてつくった快適な都市を捨てて、コントロールの難しい淀川水系の山背やましろ盆地に新都をという。当然、反発は大きかったことだろう。

 種継は改革派の急先鋒として目立ちすぎたようだ。785年、長岡京の建設現場を視察していたある日の夜、何者かに暗殺されてしまった。取り調べの結果、桓武天皇の弟で当時、皇太子だった早良親王、大伴家持らが容疑者として処罰された。種継暗殺の目的は長岡京遷都の阻止とみてよいだろう。皇太子の座は桓武天皇の皇子、後の平城天皇に与えられた。

 結局のところ長岡京は十年にも満たずに廃都となり、次に選ばれたのが平安京だった。桓武天皇に信頼され前途洋々だった父の突然の死は、まだ20歳前後だった薬子の心情に少なからぬ影を落としたことだろう。

禁断の恋

 遷都は薬子と平城天皇の人生を大きく揺さぶった。

 二人を結びつけたのは、娘の結婚だった。薬子の五人の子のうち、長女が平城天皇(当時は皇太子)の後宮(皇后や妃などが住む宮中奥向きの宮殿)に入ったのだ。どちらが最初に誘惑したのかはわからないが、いつしか薬子と娘婿にあたる平城との仲は男女の関係に発展してしまった。年齢の差は、薬子が平城の10歳ほど上か。

藤原氏系図(全体)修正済み

 平城は歴史書『日本後紀』に「風病」とあるように、一種のノイローゼで正常な判断に欠けることもあった。父・桓武天皇が死去した時には、平城天皇ははげしく号泣し、正気を失ってしまい、一人で立ち上がることもできなかったという。不安定な精神状態だったために、年上の薬子に甘えたかったのだろうか。あるいはまた、種継の犠牲によって皇太子となった平城は、その娘・薬子との出会いに運命めいたものを感じていたのかもしれない。

 いくら恋愛の自由な古代だったからといって、娘の夫と関係をもつことは尋常ではない。「禁断の恋」を知った平城の父・桓武天皇は激怒。平城の振る舞いが義に背くとして糾弾し、薬子を宮廷から追放した。こうして二人の仲は引き裂かれることとなった。

 しかし、当人たちの激情を止めることはできなかった。806年、桓武天皇の没後に即位した平城天皇は、すかさず薬子をよび戻し、強い発言力をもつ内侍司ないしのつかさ(女性職員が天皇や後宮に仕える役所)の長官に任命。だれはばかることなく二人はよりを戻したのだ。

実は名君だった平城天皇

 最愛の薬子を得て弾みがついたのだろうか、即位した平城天皇は偉大な足跡を残した父の跡を追いかけるように、政治改革を次々と実行した。たとえば、地方の情勢から民意をくみ取るための使者を派遣し、地方政治改革の重要な契機とした。さらに多くの無駄な官庁を統廃合してスリム化、これにより行政組織は効率化し、財政支出も大幅に抑制された。数々の政策は、非常に的確で実効性が高かった。晩年に「変」にかかわったことから過小評価されているが、平城天皇の政治手腕は再評価されるべきだろう。

 しかしその性急ともいえる政策には数々の反発も生じた。リストラされて不満をいだいた役人も少なくなかったようだ。『日本後紀』によれば、各所から露骨に天皇を非難する声が上がったという。こうした「世論」が背景となり、平城天皇は突然弟の嵯峨天皇へと譲位してしまう。即位からわずか三年の退任劇だった。

 平城天皇が譲位した後に居を構えたとされる不退寺ふたいじを訪れた。場所は京都ではなく奈良・平城京。こぢんまりとした閑静な境内には、鎌倉時代の建造物がひっそりとたたずんでいる。ここに平城上皇が過ごしたことを裏付ける遺構は明らかになっていないが、長年慣れ親しんだ平城京の地で、薬子とともに心休まるひとときを過ごしたにちがいない。

 うるさい保守勢力から離れて、上皇として充電していた平城は、その後も国政へ強く関与し続けた。平城上皇の権力に「寄生」してか、薬子も政治へと口をさし挟んだようだ。〝悪女〟薬子の本領発揮である。

 やはり『日本後紀』によれば、さまざまな政策の決定や役人からあがってくる意見を上皇へ勝手に取り次いだり、人を脅し、手なずけたりして首をつっこんだ、とある。薬子の望みはすべてかなえられたとも書かれている。さらに、『日本後紀』は続ける。悪女薬子は平城上皇をそそのかし、新都の平安京から平城京への遷都を宣言させた、と。このことから「二所の朝廷みかど」(二カ所の朝廷)といわれる緊張状態にまで発展、平城上皇方と嵯峨天皇方との対立は頂点を迎えた。

 嵯峨天皇は遷都の宣言にすばやく反応した。先手を打って薬子と薬子の兄の藤原仲成なかなりを悪事の首謀者として糾弾したのだ。平城京へ戻ることは、偉大な父・桓武天皇の功績を無視することであり、これを阻止することは、嵯峨天皇の大義であったことだろう。

 激怒した平城上皇は薬子を伴い挙兵しようと試みたが、あっけなく失敗してしまう(*1)。仲成は射殺、薬子は毒を飲んで自殺し、平城上皇は出家した。「平城京遷都」宣言からわずか六日間の出来事は、嵯峨天皇側の圧勝に終わったのだ(*2)。

*1 変は平城上皇方が挙兵してから戦乱もなくわずか2日で終了する。平城上皇は東国に赴いて兵を募ろうとしたが嵯峨天皇方の兵がすでに進路を阻んでいることを知ってあきらめ、添上郡田村(奈良市大安寺町を中心とした付近と推定)で平城京へ戻ったという。この時嵯峨天皇方の兵を率いる将の一人に坂上田村麻呂がいた。田村麻呂は変の翌811年に病死。

*2 この時嵯峨天皇の戦勝祈願をしたのが空海で、これにより仏教界に地歩を築くきっかけをつくったという。空海が嵯峨天皇より与えられた東寺(京都市)境内には、薬子の変を鎮めたとされる鎮守八幡宮が鎮座する。

消された黒幕の存在

 この史書に見える薬子の評価を端的にいえば、「天皇を籠絡ろうらくし国家を傾けようとした悪女」となろう。だから成敗されて当たり前、という論理が垣間みえる。こうした記述を根拠に、このクーデターは、首謀者が薬子であることを前提として「薬子の変」とよばれてきた。

 しかしそれは果たして事実なのだろうか。

 平安時代史の研究者・橋本義彦氏は、著書『平安貴族』の中で、実は薬子は利用されただけであり、真の黒幕は平城上皇その人だった、との見解を示している。いわば「薬子復権運動」ともいえるこの学説。橋本説を次に要約して紹介しよう。

――薬子の変を描いた史書『日本後紀』を読み込んでいくと、どうも事件をすべて薬子と仲成の二人に押しつけており、平城上皇をかばっている節がある。薬子のおもな罪状として「平城京遷都を推し進めたこと」とあるが、それは命を賭けて長岡京遷都を推進した父の種継の「偉業」を否定することにもなる。よって、史書に書かれている薬子の悪行の数々も信じがたい――。

 薬子=悪女説は再検討の余地が十分にある。悪女説の最大かつほとんど唯一の根拠となっている正史『日本後紀』の編纂を命じたのが、勝者の嵯峨天皇だからだ。

 嵯峨天皇には平城上皇の罪を隠ぺいする理由もある。上皇にはむかうことはクーデターにほかならないからだ。事実をそのまま書いてしまえば、嵯峨天皇は悪者となってしまう。嵯峨天皇が同じ天皇家である平城上皇の政治責任には言及せず、臣下である薬子らに罪を全部なすりつけるという、薬子=悪女説に史書を書き換えるように命じたと考えても不思議ではない。(*3)

*3 歴史書を書き換えることはさほど珍しいことではなかった。たとえば藤原種継暗殺事件に際し絶食して死亡した早良親王の記述が、桓武天皇や嵯峨天皇の都合で『日本後紀』から編集・削除されていたことが『日本紀略』(平安後期)という史料から判明している。

 さらに嵯峨天皇だけでなく、薬子の変によって得をした人物がいる。薬子や仲成のライバルである冬嗣ふゆつぐら藤原北家だ。冬嗣は『日本後紀』編纂メンバーの一人でもある。冬嗣ら藤原北家が薬子=悪女説の「創作」に加担していた可能性もあろう。この事件を契機として藤原式家は没落し、以後は藤原北家のみが有力貴族を輩出するようになったからだ。(*4)

*4 藤原道長[966~1027年]の時代に全盛を極めた。

 では変を招く原因となった「平城京遷都」宣言はだれがいい出したのか。むろん、平城上皇をおいてほかにはいないだろう。

 薬子は悪女などではなく、自らが信じる愛を貫いた、いじらしい女性だったのではないか。本来は「平城上皇の変」であるはずなのに、この一連の事件を「薬子の変」とよぶことは、一人の女性に責任を押しつけることにほかならない。平城上皇こそ黒幕だったとする見解が定説となれば、薬子の冤罪を晴らすことにもなる。愛に殉じた薬子自身は、それを望んでいないのかもしれないのだが――。

【歴史の舞台を訪ねて】
平城宮跡〔奈良県奈良市佐紀町〕
敷地内にある平城宮跡資料館(無料)では、最新の発掘調査や研究の成果が展示されており必見。
長岡京跡〔京都府長岡京市・向日市・京都市西京区〕
桓武天皇により造営された都。784年、平城京から遷都された。794年、平安京へ遷都され、わずか10年間の都となった。向日市鶏冠井町大極殿には、かつて大極殿があった場所に大極殿公園が整備されており、毎年11月11日に大極殿祭が行われる。
不退寺〔奈良市法蓮町517 ☎0742(22)5278〕
『伊勢物語』の主人公として知られる在原業平みずからが、本尊の聖観世音菩薩立像を彫刻し作り上げ、父・阿保親王の菩提を弔ったことが寺院としての始まりと伝わる。毎年5月28日には業平忌が行われ、重文の多宝塔が特別公開される。境内にはレンギョウ、ツバキ、ショウブなど四季の花々が咲き、秋には紅葉が美しい。
【参考文献】
黛弘道「藤原薬子」(笠原一男編『日本女性史』1 評論社)
春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館)
森田悌『日本後紀(中)全現代語訳』(講談社学術文庫)
瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』(思文閣出版)
橋本義彦『平安貴族』(平凡社選書)

この記事は日本古代史紀行 アキツシマの夢(恵美嘉樹 著/ウェッジ刊)より転載したものです。本書では、卑弥呼や聖徳太子、空海など日本の古代史を語るうえで欠かせない人物たちのゆかりの地を訪れ、丹念に文献を読み込むことで、歴史の波間に埋もれてしまった真実に迫ります。奥深い日本古代史の謎を、ぜひご堪能ください!

【本書の目次】
1. 女王卑弥呼の真実
2. 邪馬台国はヤマトか
3. 神功皇后 ― ヤマトを救った琵琶湖の女神
4. 雄略天皇と親衛隊長 ― 倭国独立の夢に奔走す
5. 名湯を訪れた聖徳太子
6. 大船団、北上す ― 阿倍比羅夫の遠征
7. 熱き女帝、斉明天皇
8. 奈良時代を建てた男 ― カリスマ僧行基の真実
9. 皇后の見えない糸 ― 長屋王の変
10. 仲麻呂は逆賊か ― 検証、恵美押勝の乱
11.「道鏡事件」の舞台裏
12. 政治家・大伴家持の暗躍
13. 若き日の空海 ― 新説密教伝来譚
14. 平安の悪女に花束を ― 藤原薬子の素顔
15. 海賊は国王を夢見たのか ― 藤原純友の乱
16. 後白河上皇と平清盛 ― 両雄の蜜月と対立

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恵美嘉樹(えみ・よしき)
作家。歴史研究の最前線の成果と情報を、旅を通じて社会に還元する2人組。著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『図説 最新日本古代史』(学習研究社)、『日本の神様と神社』(講談社+α文庫)、『最新日本古代史の謎 歴史の英雄豪傑たちに迫る』(学研パブリッシング)がある。

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