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どこにでもある日常が営まれる、非日常をたずさえた下北半島の街(大湊・JR大湊線)|終着駅に行ってきました#16

霊場恐山のある山地と、海上自衛隊の基地を背後に抱く街、大湊おおみなと。山地からの湧水が流れる豊かな自然に囲まれ、穏やかな日常が営まれており、美味しいお店をはじめとする好もしい場所が、きらぼしのように点在しています。そんな街へ、大正時代からの長い歴史を持つ鉄道が連れていってくれました。〔連載:終着駅に行ってきました

文=服部夏生 写真=三原久明

「お兄さんたち、取材の人なのかしら?」

 居酒屋のママは、ちょっと首を傾げ、僕の方をまっすぐ見ながら、そう言った。

 図星である。だが多分、ママの考えているような、名店紹介とか名物女将に迫る風の「取材」ではない。では、どう説明すればいいのだろう。火の玉ストレートに、僕は思わず口ごもってしまい、ママはにこりと笑って、ごゆっくりどうぞ、と奥へと戻った。

 まさに、台無しである。ミハラさんが無言のまま、ぐつぐつ煮える味噌貝焼きの豆腐をつついて、ビールをくいとあおった。地元客で大いに盛り上がっている店内で、僕たちが座るカウンターだけが、斜線が入ったように暗く沈んでいる。

 ここは青森県の下北半島の西側にある港町、大湊。終着駅のある町の片隅で、身を寄せ合うように軒を並べるお店の中で、ひときわ賑やかな居酒屋だった。

* * *

 大湊線は混んでいた。前日の夜に新幹線で東京から青森に入り、朝早くに青い森鉄道に乗って青森駅から大湊線の始発駅である野辺地のへじまでやってきた。いずれの列車も混み合っていたし、野辺地駅のホームもごった返していた。さらに、八戸はちのへからやってきた快速列車もすでに満員で、我々は押し合いへし合いしてどうにか乗り込むことができた。

 JR東日本が、鉄道開業150年を記念して、同管内の全線と青い森鉄道をはじめとするいくつかの民鉄に3日間乗り放題、という切符を発売していた。僕とミハラさんもそれを購入して旅に出たわけだが、その切符を利用している人は相当いるようだった。確かに大人22,150円という値段は破格である。ここまでの道中の混み具合は理解できた。だが、秋も深まり肌寒くなり始めている大湊線に乗り込む人たちがここまで多いのは、予想外だった。

 快速列車は、ディーゼルエンジンの音を盛大に鳴り響かせながら、ススキ生い茂る平原を突っ走っていく。首都圏の通勤電車を彷彿させる車内とはまるで釣り合いの取れない寒貧かんぴんな風景が続いたと思うと、線路のすぐそばにまで陸奥湾が迫ってきた。鈍色にびいろの空のもと白い波を見せる海を見て、観光客たちから一斉にため息が漏れた。タイミングをみはからったかのように、運転士は速度を落とし、車窓の風景を解説してくれた。

 本州の北の果てにやってきたことを実感した瞬間だった。

* * *

 一つ手前の下北駅でほとんどの乗客が降りたが、大湊駅に降り立つ人も多かった。だが、旅人たちが、恐山や大間といった観光地へと向かうと、駅前は静寂が訪れた。

 晴れた空のもと、所在なさげに立っていると、ミハラさんがふらりと顔を見せた。

「人、多いねえ。列車の到着が遅れてたけど、混雑していたからなの?」

 ミハラさんは、朝イチで都内から大湊に入っていた。僕の乗った列車の到着を撮ろうと、駅でカメラを構えていたらしい。しかもレンタカーで街中のフォトジェニックなスポットも一通り回っていた。精力的なのである。

 駅前のホテルに荷物を預かってもらいながら、手短に互いの予定を出し合った。その結果、引き続きクルマを使って街のあちこちを撮影するミハラさんとは別行動を取り、僕は一人で街歩きをすることとなった。枕崎の時とは逆のパターンである。

 ミハラさんのレンタカーを見送ってから、商店街を歩いた。金物屋に洋菓子店、旅館に焼き鳥屋。頂上に海上自衛隊のレーダーサイトが置かれた釜臥山を背景にした通りは、かつての繁栄ぶりをしのばせる気の利いた風情の店が並んでいる。とはいえ、その規模は小さめで、200メートルほど歩いて小さな橋の手前でひと段落した風情になった。

 もう少し歩きたい気持ちもあったが、ちょうど昼時だった。目の前にある洋食屋に心惹かれて入ると、店内は満員だった。僕のような旅行者もいるが、メインは地元客のようで、店のマスターと女性の店員も、仕事の合間に彼らと会話を交わしている。

「久しぶりだったけど、やっぱり美味しいね。また来るね」

 里帰りをしていると思しき若い女性が、その両親と共に勘定を終えると、手早くテーブルを片付けた店員が、外で待っている家族を招き入れる。席につくと、母親の手をぎゅっと握った子どもが父親にメニューを読み上げてもらいながら、何を食べるか一所懸命考える。

 街のちょっとよそ行きの洋食屋で繰り広げられる、いつも通りの休日と思しき空気の中、運ばれてきたアランドロンカレーなる名物料理は、美味しかった。カレーのかかったご飯の上に置かれた丸いハンバーグを割ると、中からチーズが溶け出てくる。ひと口食べるごとに、人混みの中を移動し続けて、どこかせわしなかった気持ちが落ち着いていくのがわかった。

「そうねえ、一言で言えば、のんびりしていて、いい街ですよ」

 大湊の街をそう評する店員に、名称の由来を聞いたら、チーズが溶け出てくる様子を表現したものだということだった。

 店を出たところでスマートフォンを確認すると、歳下の友人からLINEが届いていた。

「大湊行ったら、ぜひ寄ってみてください。うまいです」

 という一文とともに、ラーメン屋の情報が書かれている。手早く調べると、歩いてすぐの場所にある。ただし、もうすぐ閉店時間の上、明日は定休日のようだ。満腹だったが、今行かねば後悔するパターンである。気合を入れ直した。

 住宅街の中にあるラーメン屋は地元客で混んでいた。家族づれや友人同士で盛り上がる店内の一隅に座ってメニューを確認した。味噌ラーメンが名物とのことだったが、腹具合を考えてあっさりしていそうなワンタンメンを注文した。

 店内を見渡すと、テイクアウトができると張り紙がしてある。「お鍋をご持参のうえ、『〇〇ラーメン〇人前』とお申し付けください」という文言は、この店が地元の人たちに愛用されていることを雄弁に物語っていた。

 メリハリ効いた手さばきの店主が作ったワンタンメンは、やさしい醤油味で、予想以上に美味しく、するすると完食できた。

* * *

 大湊のうまいもんでいっぱいになった腹ごなしも兼ねて、街を歩くことにした。駅の先にある海上自衛隊の基地の方へ向かいたい気持ちもあったが、市街地の方により魅力を感じて、反対側の下北駅へと向かうことにした。

 住宅街の中を歩いていくと、小さな川を何本か渡る。いずれも霊場の恐山へとつながる背後の山地から湧き出て、大湊湾へと流れる川である。水の多い街特有の澄んだ空気が流れる中、自宅の駐車場でクルマを洗うお父さんや、小さな自転車を乗り回す子どもたちが目に入ってくる。雄大で少し寂しげな下北の自然がすぐそこにある風景とのコントラストは、僕に旅に出ていることのみならず、どこにあっても当たり前のように人の営みが繰り広げられていることの尊さを、改めて実感させた。

 感慨にふけりながら、日曜日ならではの力の抜けた光景の中を歩いていると、拡声器越しの音声が流れてきた。

「4回表の攻撃、バッターは3番ショート……」

 どこかで野球をやっているのだろう。

 東京で暮らしていた頃は、休日に野球をしばしば観戦していたことを思い出した。といっても、プロ野球を見にいくわけではない。外出すると、街のそこここで草野球が繰り広げられていたのである。僕は、のちに妻となる女性だったり、生まれて間もない子どもと一緒に、公園のグラウンドや小学校の校庭で繰り広げられるそれらを見ながら、穏やかな休みを過ごしていた。

 拡声器から流れてくる音声に耳を澄ませていると、なかなか白熱した試合のようだった。久しぶりに見てみようかな、という思いが湧いてきた。わざわざ下北半島まで来て、という気持ちもあったが、そもそも明確な対象のある「取材」ではない。好奇心の赴くままでよかろう、と音の流れてくる方へと歩いて行った。

 海を背にする形で、住宅街を山裾へ向かって登っていくと、やがて街道に行き当たった。その先に運動公園があり、一角の野球場から金属バットでボールを叩く音と、選手たちの掛け声が聞こえてきた。急いでスタンドへ上がると、予想どおり、熱戦が繰り広げられていた。

 試合は中盤、点差は拮抗している。どうやら、地元の草野球チームのトーナメント戦のようだった。

「優勝できるぞ!!」

 小学生と思しき少年がフェンスに張り付いて、熱い声援を送る。スタンドには、選手たちの家族と思しき母子が何組か観戦しているのである。

 少年の父親と思しきエースは、明らかに声援を意識して渾身のストレートを投じるが、あえなく長打を打たれる。さらに三遊間の連続エラーもあり、逆転されてしまう。

 しょんぼりとした少年が席に戻ると、母親が「仕方ないよ」と語りかける。まだ試合は決していない、応援を続けよう。そんなことを伝えられたのであろう。少年は再びグラウンドに視線を戻す。力投空しく控え投手と交代となった父親は外野へと向かい、気を取り直して大声で声援を送る。

 試合を見ているうちに、両チームとも相応の技量を備えているが、エラーもまあまあの確率で出ることがわかってきた。だから、見ている方も気を抜けない。

 打席に立った元エース氏が内野ゴロを放った。いわゆる凡打だが、相手がエラーした。

「ちゃんと走れー、諦めるな!」

 厳しい声がとんで、球場の空気が、ぴしっと締まる。声の主は、先ほど息子を励ましていた母親兼元エース氏の妻である。首を振りながらゆっくり走っていた元エース氏も、全力疾走になったが、時すでに遅し。一塁には到達したが、二塁への進塁は叶わなかった。

 妻の方をちらりと見て、元エース氏は、気まずそうに一塁でヘルメットを被り直す。その様子を見て、敵も味方も一緒になって笑う。その笑い声には嫌味がなく、鬼軍曹兼妻氏もふふと笑い出す。

 試合が終わって、両チームが挨拶をしたタイミングで席を立った。上手い下手ではない。選手も応援する人たちも、真剣な上に心から楽しんでいたから、観ていて文句なしに面白かった。

 晩秋の下北の空はいつの間にか雲が出てきており、体はすっかり冷え込んでいたが、気持ちは温かくなっていた。

* * *

「だったらさ、夜も、地元の人が集まるようなお店に入ろうよ」

 下北駅から大湊駅まで戻ると、折り返しの列車に乗ろうとする観光客が駅の外まで列をつくっていた。2022(令和4)年度の1日の平均乗車人員93名を、この1本だけで軽くクリアしてしまう混雑ぶりである。

 一方、彼らがいなくなった大湊の街は、再び閑散となり「いつもの夜」を迎えるところだった。数時間ぶりに顔を合わせたミハラさんに、今日見てきたものをひと通り話すとそんな答えが返ってきた。

 ならば、と昼にチェックしていた洋食屋のそばの居酒屋が固まっている一角に向かい、目についたお店に入った。「ここは海軍の兵隊さんの街なんですよ。恐山にはめったに行きませんけど、お祭りの時には行きます」と話す、地元育ちの店主の出す料理は悪くなかったが、ミハラさんはビールを一杯飲むと、もう一軒いこう、と席を立った。

「もう少し地元感のある店で飲みたいな」

 先ほどの列車でほとんどが帰ったとはいえ、まだ街には観光客が多いのだろう。確かに店内はよそから来た人で埋まっていた。ここはミハラさんの勘に任せようと思って、後ろをついていくと、通りの中でひときわ派手な装飾が施された居酒屋ののれんをくぐった。

* * *

「あら、そうなの。たくさんあるから、食べていって」

 自分たちが旅人で、大湊の名物を食べたいと告げると、店のママは華やいだ声をあげた。その明るさに引っ張られて、ホタテの貝殻を鍋代わりにした味噌貝焼きに加え、馬刺し、さらにはアピオスなるマメ科の植物の素揚げを頼んだ。

 ミハラさんの見立てどおり、ここは、地元客で賑わっていた。座敷に座っている自衛官であろう若者たちの笑い声が、店内を明るく彩っている。

 客の間をママは縫うように歩き、会話を交わす。そして、必ずと言っていいほど、新規の注文を取り付ける。商売上手さを兼ね備えた人の心を逸らさない話術を、常連たちも大いに楽しんでいるようである。

「自然が豊かだからね、食べ物も美味しいのよ」

 僕たちのところに来た際に、いずれの料理も美味しいと告げると、ママは嬉しそうに声をあげた。話し好きなのは間違いない。そう踏んで、刺身の盛り合わせを追加で注文しつつ、この店はもう長いんですか、と問うてみた。

「そうね、30年になるかな」

「元々、ここの生まれなんですか?」

「ううん。でも、ここに来てからはもう50年」

「長いですねえ」

「いろいろあったけどねえ。とにかく、ここは人があったかい土地だから。うん。だからいられたのよ」

「お店、新聞にも紹介されているんですね」 

 ミハラさんが壁に貼られた記事の切り抜きを話題にして混ざってくると、ママは再び嬉しそうになって、店の紹介記事などを持ち出してきた。大湊の名物居酒屋、名物女将という体で取り上げられているものが多いようだった。ざっと目を通していると、店のPRはしつつ、長く暮らしてきた街の良きところも伝えていきたい、という情の深さも伝わってきた。

「ママは、なんでこの街に来たんですか」

「そうね」

 一瞬、ママは答えようとして、言い淀み、冒頭の言葉を言ったのである。

* * *

「よかったら隣のお店にも寄っていって」

 夜も更けていっそうの盛り上がりを見せるお店を出る僕たちを、ママはこだわりのない笑顔で見送ってくれた。興味を持って「隣の店」を見るとスナックであった。一杯呑んでお腹もくちくなったら、さらにいい気分でくつろげるわけである。

 ママは大湊で多角経営をこなす起業家だった。僕があれこれ思惑をめぐらしたところで、はなからかなう相手ではない。そう得心すると、いっそ彼女の手のひらの上で一晩おどってもいいと思えてきたが、ミハラさんは首を縦にふらなかった。一人で行っても味気ないし、話も大して聞けないだろう。諦めて、ぶらぶら駅前のホテルへと戻っていくことにした。

「ちょっと寄ってみない?」

 先を歩いていたミハラさんが、指差した先には、パン屋の看板があった。夜も更けてしらじらとした街灯ばかりが目立つ通りに、その軒先の灯りは、京都の寺町通で梶井基次郎を魅了した果物店もかくやというほどの鮮やかさで目に飛び込んできた。

「ひとつからでもつくれるわよ」

 店じまいの用意をしていたにもかかわらず、女将は僕たちの注文に気持ちよく応じて、名物だというあんバターサンドと、ピーナッツクリームサンドを2つずつ作ってくれた。

「こちらは長いんですか?」

「うん。元々、夫が国鉄の職員でね、転職した形になるのかな」

「昔はもっと駅も大きかったんですよね」

「そうねえ。日通もあったしね」

「人も多かった」

「昔からよそから来る人も多い街だしね。今だって、鉄道と自衛隊があるし、港もあるから」

 ふと、以前訪れた仙崎を思い出した。この街も、山陰の港町と同じように、戦後間もない頃、海外からの引揚者を、あちこちに残っていた旧海軍の建物に入居させた歴史があるという。その数、数百世帯、数千人ほど。戦時中には10万人近くの人口があった大湊町にとっても、結構な割合の人数が流入したことになる。

「みんな、新しい人が来ることには、こだわりがないと思うわよ」

 多分、と僕は思った。この街の人は、やってきた人に「なんでここに来たのか」なんて、不躾な質問をしないのだろう。彼らが対峙するのは、まさに今現在の、その人なのだから。それぞれの「ここまで」に敬意を払うから、気安くは聞かない。でも、本人が語りたくなったら語ればいい、という余白を残す。

「大湊には、人を受け入れる風土があるんだな」

 問わず語りだったが、女将はそうかもねえ、とうなずいてくれた。

 ホテルの部屋の窓からは大湊駅が見えた。夜のホームを眺めながら、朝まで待ちきれずに食べたあんバターサンドは、街の空気を象徴するかのように、シンプルでやさしい風味だった。

* * *

 朝、目を覚まして外を見ると、まだ暗い中、一番列車が発車していくところだった。

 宿泊したホテルは、JR東日本グループが運営している。

 大湊線は、1921(大正10)年に野辺地から大湊の全線が開通した。1905(明治38)年に日本海軍の大湊要港部が開庁したことが大きな契機となり、鉄道敷設へと至った。周辺住民の期待も大きかったようで、むつ市史をひもとくと、田名部、大湊両町村をあげて、花馬車の運行や小学校の旗行列で開通を祝ったとある。

 大湊駅には、機関区と車掌区が設けられ、1938(昭和13)年に開業した下北駅から半島の東岸にある大畑へと至る大畑線の始発駅も兼ねつつ、貨物の取り扱いをするという、まさに下北半島の北の終着駅として賑わった。 

 戦後も海上自衛隊の基地が置かれたこともあり、高度経済成長期の大湊の街は栄えたが、やがてやってきた過疎化の波はまぬがれることはできなかった。大湊と田名部の町が合併してできたむつ市の人口は、1985(昭和60)年の71,857人をピークに減少傾向にあり、2023(令和5)年には53,099人となっている。高齢化も進み、市が公表する資料によると、総人口に占める65歳以上の老年人口の割合が2015(平成27)年時点で約30%、2045(令和27)年には約44%にまで上がると試算されている。

 大湊駅も、昭和末期に荷物取り扱いを終了し、平成に入って下北交通が運営していた大畑線が廃止され、大湊線を管理する営業所もなくなった。

 大湊線の輸送密度は2020(令和2)年度で288人/日。約30年前の30%にまで減少した。一般的に輸送密度が2,000人以下の路線は、継続に大きな困難を伴うとされる中で、なかなか厳しい状況だ。だが、その現状に甘んじることなく、多くの人々が、観光客を呼び寄せるための努力を続けている。その一環として、縮小された大湊駅の構内跡地に僕たちが泊まったホテルが建っているのである。

「おかげさまで、多くの方に来ていたただいて」

 昨夜チェックイン時にそう話しながら、昔話を聞かせてくれたフロントの男性も元鉄道職員だった。

「街道にも居酒屋もスーパーもあって、あの頃は、もっと賑やかでした」

 パン屋の女将の話をしたら「そうそう、ご主人が、鉄道の職員だったんですよね」と懐かしそうな表情になった。

* * *

 2日目は、14時までしか時間がなかった。その日のうちに大阪に入る必要があったのである。

 街をまだ見たい気持ちもあったが、せっかく来たのだから、とミハラさんのレンタカーに同乗して、海上自衛隊大湊地方総監部を外から見学しつつ、恐山にいってみることにした。

 円通寺の山門をくぐり参拝をしてから、湖畔へと向かう道に入った。

 亜硫酸ガスが噴き出す中、石積みの山や卒塔婆が並ぶ荒涼とした景色が広がる。死者の集まる山とされ、7月の恐山大祭にはイタコも登場し、大勢の参拝客で賑わうそうだが、晩秋の平日にも、多くの善男善女たちが訪問していた。

 ミハラさんがカメラを構えて先へ行くのを見ながら、僕は前の週の仕事で会った人たちを思い出していた。枕崎から大湊に来る間、僕は首都圏でいくつかの団地の取材をし、そこに住む人々に話を聞いていたのだ。

「古いから、水回りがちょっとね」

 インタビューは、あらかじめアポイントを取ったわけではなく、その場で声をかける方式だった。このやり方は手間こそかかるが、応じてくれる人は、ざっくばらんに本音を語ってくれる。水回りや融通の効かない間取り、駅の遠さや買い物の不便さ……。よくぞここまで、と思うほど、今暮らしているところへの不満点が、次々と出てきた。

 だが、ひと通り語り終わると、誰もが判で押したように、同じ言葉で締めくくった。

「でもね、なんだかんだで気に入っているよ」

 どこも古い団地だっただけに、話を聞く相手も年配の方が多かった。だから、今さらどこかに引っ越す可能性は、あまりないだろう。そういった事情を差し引いても、愛用のバイクを磨いたり、広場で野球に興じる子どもたちを見守るかのようにベンチで一服する彼らが、少しずつ小さくなっていく街に、根強く残るお気に入りのお店や、近所の話し相手の存在など、良きところをひとつずつあげていくのを聞くひとときは、楽しかった。

 彼らの、住むところに愛着を持って、日常を慈しんでいる様は、時間が経つほどに、あまい蜂蜜のように心の奥深くにたまっていった。

 生と死が邂逅する霊場を背後に抱き、自衛隊の艦船が港に係留されている。そんな非日常感を内包しながら、大湊の人たちもまた、どこにでもあるような「日常」を営んでいた。だから、都会に比べて数こそ少ないが、その分、通う人たちも一緒になって磨き上げてきた飲食店や野球場や宿といった場所が、きらぼしのごとく点在しているわけだ。

 やってくる人も、とどまる人も、迎え入れるような余裕と温もりのある空気を、僕は大湊の街と人たちに確かに感じた。そして、ここを訪れることで生まれる、新たな滋味をたたえた蜂蜜が加わり、積み重ねてきた「良きもの」の中に混ざり合っていく予感に、心踊らせた。

「50年って、ひとことでまとめられる人生じゃないよ」

 風車がからからと回る景色を撮影していたミハラさんが、不意に顔をあげた。

「いいことばかりのわけないしさ。言えないことだって、たくさんあるだろうし」

 昨日の居酒屋のママの話をしていると気づいて、僕はミハラさんと肩を並べて歩き出した。

「そうですね。いきなり、踏み込みすぎました」

「まあ、あっちの方が上手だよ。簡単に語りはしないさ」

 ミハラさんは、笑ってから、言葉を継いだ。

「でもさ、初めて会った人に『ここはいいところだ』ってことを言える。そんな人生を過ごしてきたってだけで、すごいんじゃないかって。俺、最近そう思うんだよね」

 そう語ると、お、と声をあげて、カメラを構えた。目の前には、極楽浜と呼ばれる砂浜が広がり、その先に、外輪山に囲まれた宇曽利湖の水面が日光を浴びてきらめいていた。

* * *

 帰りの大湊線も混んでいた。昨日と違うのは、旅行客に混ざって、地元の人たちも結構乗っているところだった。旅行客は大きい荷物を抱えておおむね黙っているが、地元客はいつも通りにしゃべるから、違いがわかるのである。

「あれは、アカシアの木だよ」

 小さな駅に停車した時に、母親がまだ小さな娘に教える。少女は、ふうんと答えて、アカシアの蜂蜜、パンに塗ると美味しいよね、と母親に話しかけた。その言葉で、下北半島の名物を手に入れることを失念していたことに気づいた。

「また買いに行こうね」

 少女に向けた母親の言葉は、僕にも響いた。

 どの終着駅に行っても、どの街に行っても、そこには人がいて、生活を営んでいる。僕は彼らの様子を垣間見させてもらい、人と街のことを想像し、自分の「ここまで」と照らし合わせる。そんな時に「いろいろあるけど、いいところだ」と、てらうことなく語る人がいたら、気持ちはその分だけ温かくなる。良さを語る人が多ければ多いほど、訪ねた街の表情は多面的になり、魅力は増していく。

 かつての賑わいがなくなりつつあろうとも、そこに積み重ねられた「日常」がある限り、その良き部分はいささかも減じることはない。だから僕は、鉄道に乗ってまた来よう、と思うのである。

「大畑にも行ってきたけど、いいところだった」

 大湊駅で別れたミハラさんからメッセージが届いた。

「大畑線が残っていたら、もっと良かったけど、まあ、よそ者の俺が言うことじゃないね」

「今度、僕も行ってみますよ」

 行きたいところが増えた幸運を味わいながら、僕は、翌朝から訪れる関西の団地の下調べを始めることにした。

文=服部夏生 写真=三原久明

【お知らせ】本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年に天夢人社より刊行されています。

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのち独立。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。「編集者&ライター。ときどき作家」として、あらゆる分野の「いいもの」を、文字を通して紹介する日々。「鉄」の長男が春から親元を離れ、彼との鈍行列車の旅がしにくくなったことが目下の悩み。

三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2022年10月に取材されたものです。

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