福井・北前船と夢の町(南越前町)|北陸新幹線開通記念特集
海運と商才と──南越前町
風を受けていっぱいにふくらんだ白い帆の力で、がっしりとした木組みの船体が海を滑るように進んでいく。「どんぐり船」とも呼ばれるでっぷりした腹の中には、各地の自慢の産物がぎっしりと詰め込まれている。
江戸時代の半ばから、1897(明治30)年ごろまで、こうした「北前船」が日本海を数多く行き来した。当時の船絵馬や錦絵には、入港してくる大小の白帆や、帆を下ろして停泊する船がいくつも描かれ、湊のにぎやかなようすが伝わってくる。水軍力抑止のため、大型船建造を禁止した幕府の統制下でも、目いっぱいの規模を確保して荷を積み、独自の商法で巨利を得た北前船を、作家・司馬遼太郎は著作『菜の花の沖』(*1)の中で、「船の王」と書いた。
大海にロマンを積んで
「北前」の名の由来には、「北廻り船」がなまった、日本海を「北前の海」と呼んだ、などいくつかの説がある。
船の主な形式は「弁財船」と呼ばれる堅牢な和船だ。江戸期は幕府の定めで帆は1本だったが、鋭角の船首で波を切り、逆風でも進める高度な帆走性を備えていた。大きさは500石程度のものから、「千石船」の名の通り、米を1000石(約150トン)積める大型船も少なくなく、最大のものは2400石積だったという。
進む航路は、蝦夷地(現在の北海道)と大坂を結ぶ「西廻り航路」。人口が急増した江戸に直轄地の出羽(現在の山形県、秋田県)の米を効率よく運ぶため、幕府が商人の河村瑞賢[1618–1699](*2)に命じて整備した航路のうちの酒田〜大坂区間と、もともと近江商人が整備していた蝦夷地〜敦賀を結ぶ航路がつながってできた海の道だ。船には、船頭(船長)、表(航海長)、知工(経理事務長)、親父(水夫長)のほか、水主数名が乗り込んだ。「板子一枚、下は地獄」。命がけの仕事で、同乗するのはほとんどが身内か同じ地域の出身者だった。
北前船の特徴は、物資を輸送する海運にとどまらず、各寄港地で盛んに積み荷の売買「買積」を行ったことだ。大坂・瀬戸内地方から日本海方面へ向かうことを「下り」、反対を「上り」と呼び、「下り荷」は大坂・瀬戸内地方の酒、塩、砂糖、煙草、紙などの雑貨、小浜・敦賀の縄、筵、新潟・酒田の米など、「上り荷」は蝦夷地の鰊、昆布などの海産物を扱う。
産地で安く仕入れた品物を遠隔地で、高値で売る。情報が乏しい時代、いち早く需要をつかんだ船は、高い利益を得られる。蝦夷地では米や生活物資は必需品であり、各地で急速に広がった綿花栽培に使う鰊の搾りかすの肥料は飛ぶように売れた。利益の目安は2割が下り、8割が上り。「ひと航海千両」「海の総合商社」と言われた北前船は、海の男たちの夢をかきたてた。
船で身を立てた右近家
南越前町河野地区。ここは北前船の全盛期、多くの船主、船員が暮らした地域だ。「河野北前船主通り」には、歴史的建造物が立ち並ぶ。中でもひときわ豪壮な屋敷が、北前船の「五大船主」のひとつとして栄えた右近家で、現在は資料館「北前船主の館 右近家」として公開されている。
広大な敷地の建物は、高台の西洋館も含め、すべて目の前の越前海岸に向いている。通常、奥まったところにある蔵が一番前(海側)にあるのは、潮風から奥の屋敷を守るためだという。ひんやりとした本宅の中に入ると、吹き抜けの高い天井と囲炉裏がある台所。そこに「幸恵丸」「伊勢丸」などと書かれた大きな船幟があった。船幟は船尾で冷たい海風にはためき、船乗りたちを鼓舞した実物だ。堂々とした文字に北前船の誇りと力強さを感じる。
右近家は、まさに時代の波に乗って発展した船主だった。
同じ通りにある金相寺は、右近家初代・権左衛門の実家で、古くから府中(越前市)より馬借街道の峠を越えてこの地に運ばれて来る紙や米を、小さな船で敦賀に運ぶ運送業を営んでいた。江戸後期、7代目、8代目の時代になると、松前藩が治める蝦夷地にいち早く進出した近江商人たちにチャーターされ、「荷所船」として活躍する。やがて蝦夷地の幕府直轄化や江戸商人の進出の影響で近江商人が撤退すると、9代目権左衛門は、北前船主として積極的に商いを広げ、繁栄の基礎を作った。8代目が亡くなった1853(嘉永6)年には、右近家が所有する廻船は3艘、利益が1600両ほどだったが、10年後には廻船11艘、利益は1万2000両余に達している。
「このあたりでは、こどものころから船に乗せて経験を積ませました。商いに欠かせない読み書きを習う寺子屋も3カ所あったそうです。若いときから、家の廻船に乗り込んで、各地の情報や経営を学んだ9代目は、自ら北前船の船頭も務め、多大な利益を手にしました」(「北前船主の館 右近家」でボランティアガイドも務める、河野北前船主通り案内の会会長の千馬仁視さん)
右近家の店印は、2本の斜め線で「一膳箸」を表す。「物を運ぶ」「橋渡し」の意があるという。資料館には髷を結い、帯刀した9代目の写真パネルがある。小柄で少年のような面差しのこの人が、千石船を操り、ダイナミックな商いに挑んだのだ。なお、この人に育てられ、明治の世を生きた10代目も時代をよく読んだ。電信など情報網の進歩で買積のうまみを失うと、船を西洋帆船、蒸気船へと切り替え、運送業へと転換。同業者の保護育成のため、日本海上保険会社(現在の損害保険ジャパンの礎のひとつ)設立にも尽力している。
文=ペリー荻野
写真=須田卓馬
──この続きは、本誌でお読みになれます。北前船の主な寄港地である敦賀・三国をめぐります。北海道の海産物や東北の米を関西圏へ運ぶための重要な湊であった敦賀では、日本に近代化をもたらしたとも言われる昆布文化について、今も続く和食の礎を学びます。また、東尋坊の近く、坂井市の三国湊では、男たちが船に乗っている間の生活を支えた海女の伝統を受け継ぐ女性たちを訪ねます。色鮮やかなグラビア写真と共に、お楽しみください。
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出典:ひととき2024年4月号