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清明、金面山に登る。|清明~穀雨|旅に効く、台湾ごよみ(7)

台湾といえば「常夏」――そんなイメージをお持ちの方も多いかもしれません。しかし、台湾にも南国ならではの季節の移ろいがあります。この連載旅に効く、台湾ごよみでは、季節の暦(二十四節気)に準じて、暮らしにとけこんだ行事や風習、日台での違いなどを、現地在住の作家・栖来ひかりさんが紹介。より彩り豊かな台湾の旅へと誘います。

 清明といえば、台湾では国定祝日を入れて四日程度の連休となり、培墓(プエボン)/掃墓(サオムー)といって、先祖のお墓参りをするのが習わしだ。また、その前後には「踏青」と言って山登りやハイキングをし、晩春の爽やかな空気を楽しむ。二十四節気の「穀雨」(今年は4月20日~5月4日)が過ぎれば、暦の上ではもう夏である。

 台北市の北側に広がる「陽明山」は国家公園だが、台北市街からはバスや自家用車で一時間以内には登山口に到着し、多様な登山ルートを楽しめる。こんなにも国家公園に近いキャピタル・シティは、台北をおいてなかなか無いのではないだろうか。筆者も最近は週末ごとに台北郊外の山に出かけているが、台湾独特の植物や鳥を見られるのが、何より楽しみとなった。今の時期、陽明山名物の「海芋(カラー)」の花が満開だ。山頂から見わたす山々はあらゆる種類の緑色をしてゴブラン織りのように美しい。

カラー

清明節の前日に「冷たい料理」を食べるワケ

 さて、清明節に墓参りをするようになった由来には諸説あるが、よく知られているのにこんな話がある。かなりツッコミどころ満載なので、いささか紹介するのを躊躇うのだが……

春秋戦国の時代、のちに天下の覇者となった晋国の文公は若いころ、介之推(かい・しすい)という名の家臣を伴い戦乱をさけ放浪していた。幾日も食べ物を口にしていない文公は気も狂わんばかり。ようやく農村に辿り着き食べものを乞うたが「こんな世の中で自分が食べるものさえないのに、おまえにやるものなぞない、どうしても食いたけりゃ泥でも食え」と追い返されて絶望し、泣き出してしまう。見かねた家臣の介之推は再び村にはいり、一椀の肉入りスープを持ってきた。文公は喜んで一息にスープをひとくちに飲み干す。ようやく生き返った心地であった。

ふと傍らにいる介之推を見ると青い顔をして、足からは血がダラダラと流れている。文公が再三問い詰めたところ、実はあのスープはじぶんの太ももを切りおとして煮たものだと介之推が告白したので、文公は深く感動したのだった。

やがて戦乱は収まり、国に戻った文公は晋国の君主となる。功績のあった者達には報奨が与えられたが、色々あって介之推だけそこから外れてしまう。希望を失った介之推は母親を連れて山中に入り、隠遁生活を始める。一方、介之推がかつて自分の腿肉を切りおとしてまで命を救ってくれたことに思い到った文公は、報奨を与えなかったことを後悔し、介之推の暮らす山へとむかう。

山はふかく、分けいっても分けいっても介之推は見つからない。
「そうだ、山火事になれば介之推母子も驚いて出てくるだろう」
そう思い、文公は山に火を放つ。火は三日三晩山を焼きつくしたが遂に母子は現れず、焼け残った大木のそばで抱き合ったまま黒焦げになっていた。

文公は自責の念にかられ、介之推を悼んで清明節の前日(冬至より数えて105日目)には火を使うことを禁じるお触れを出した。これを寒食節といい、この日は冷たい食事を取ることが習わしとなった。また清明節には門前に柳の木をかざって介之推の霊をまねき、野山にあそんで介之推の霊を慰め、先賢を敬うことから転じて清明節は墓参りの日になったという。

 余りにも、介之推とお母さんが気の毒すぎるし、文公の横暴さには開いた口が塞がらない。火を禁じられた「寒食節」も当初は一か月ほどもあり、庶民は麦芽糖(水飴)をビスケットに付けて食べるなどして凌いでいたらしい。千年以上のあいだ、寒食節は1週間から3日と段々短くなり、現代では清明節の前日一日のみとなった。しかし唐代には、もし火を使っていることが見つかれば死罪となるほどのタブーだったという。

 そんな寒食節、台湾では「潤餅」(ルォンビン/ズンピヤン)と言って色んな食材を春巻きの皮で手巻きし、火を使わずにそのまま食べる。この時期になれば「潤餅」の有名店には行列ができるし、台湾南部では中身や皮も手作りし、墓参りのために帰省した家族みんなで「潤餅」を楽しむ家庭も少なくない。また麦芽糖をビスケットで挟んだ「麦芽餅」をおやつに食べる地域もある。

春巻き

日本時代に撤去された「台北城の壁」はいま

 さて、清明節の連休には台北市内の内湖にある「金面山」(海抜258メートル)に登った。石の性質により太陽が当たると金色にきらきらと輝くことからこの名がついたという。実際、登りながら石に触れていると、その砂岩石英を含んだ安山岩のぎゅっと引き締まった岩質や、薄桃色が入り混じった岩肌に見覚えがある。金面山といえば、清代に今の総統府あたりに作られた台北城(日本のような城ではなく、城郭に囲まれた街のこと)の石の産地。日本時代の児玉源太郎台湾総督のときに撤去された台北城の壁は、台大醫院旧館の壁や金山南路に残っている台北監獄の壁跡としてひっそりとリサイクルされ、今も台北市内のいたるところで見かけることが出来るからだ。

山登り

 何億年も前の古生代にフィリピン海プレートが潜り込んだ海底に溜まったマグマが噴き出して火山爆発し、盛り上がった山に大きな安山岩が降りそそいだのが今の金面山の大岩である。それがこんなにも高い場所から人の手で切り出され、基隆河で運ばれたと想像すれば、台北という街のダイナミズムを感じることができる。歴史と地形を感じながら街歩きや自然を楽しむ、それもまた台湾の楽しみ方のひとつだろう。そんな感覚を描き残しておきたくて、漢詩づくりに挑戦したので、お恥ずかしながら披露してみる。

  清明爬了金面山 四野遠響鞭炮聲,  
  四肢下的水晶岩 如走呂宋海槽上,
  望下流悠基隆河 古人採金石船運,
  萬年流轉城牆壁 今只見監獄之蹟

清明、金面山に登る。四方から墓掃除を済ませた人々の鳴らす爆竹の音が遠く響いてくる。
山登りをする手足の下には、石英を含んだ安山岩の大岩が連なっている。
台湾を形作ったフィリピン海プレートの上を、歩いているようだ。
眼下には淡水河の支流、基隆河が流れている。清代の人は、この金面山から切り出した石を基隆河の船に乗せた。
長い時をかけて降り積もった火山の石、それを切り出し組んで作られた台北城壁も今は無く、台北監獄跡の壁として、残るのみである。

文・絵=栖来ひかり

栖来ひかり(すみき ひかり)
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)。

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