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歌人・吉井勇と大文字の送り火

偉人たちが綴った日記、随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、時代を超えて人々を惹きつける古都の魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第3回は、歌人・吉井勇の『洛北随筆』です。50歳を過ぎて京都へ移り住んだ吉井が自宅から見た大文字の送り火。臨場感あふれる文章から、まるで目の前に見えるような気持ちにさせられるでしょう。

 京都の夏を代表する風物詩といえば、7月の祇園祭と8月の五山の送り火でしょう。

 どちらも歴史ある行事として、昔から京都市民に親しまれてきたものですが、特に五山の送り火は印象の強さという点では別格。夏の夜空に浮かび上がる、火で作られた文字や形という神秘的な姿が感動的で、多くの文人たちが筆に残しています。

 もともと五山の送り火とは、お盆の精霊を送る行事です。まず如意ヶ嶽(にょいがたけ/大文字山)に大の字が浮かび上がり、続いて、松ケ崎に妙と法、西賀茂の船山に船形、大北山に左大文字と続き、そして最後に、嵯峨鳥居本の曼荼羅山に鳥居形が点ります。

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京都市街を囲む山々の中腹に浮かび上がる「五山の送り火」の中でも最も有名な東山如意ヶ嶽の「大文字」

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嵯峨鳥居本の曼荼羅山の鳥居形

大文字の護摩木納めの人つづく山腹にさす夕日あかしも

 これは、明治から昭和にかけて活躍した漂泊の歌人・吉井勇の歌です。

 1886(明治19)年に伯爵家の子として東京に生まれた吉井は、与謝野寛(鉄幹)主催の新詩社に入り、雑誌「明星」に次々と歌作を発表。新進歌人として注目を集め、劇作家としても活躍します。が、実家の負債の相続や家庭内の不和に苦しみ、失意のうちに漂泊を重ねたのちに高知に隠棲します。

 1938(昭和13)年、すでに50歳を超え、再起を期した吉井は隠棲していた高知から京都に移り、左京区北白川に居を構えます。その家からは、五山の送り火のある如意ヶ嶽が見えました。

京都の忘吾亭(自宅)の庭で-昭和34年5月4日1

吉井 勇(よしい・いさむ)
京都の忘吾亭(自宅)の庭で 昭和34年5月4日 写真提供:香美市吉井勇記念館

北白川の私の家の二階から見ると、如意嶽は直ぐ目の前に聳えていて、秋空のくっきりと晴れた日などには、大の字に並んだ火壺の跡が、数へられる位はっきり見え、眸(ひとみ)を凝らすと大の字の交錯点のあたりを横切っている、山道を登ってゆく人の姿までが、芥子人形*のように小さく見える。

*芥子人形 芥子粒のように小さい人形

この山に登るのには、永観堂(えいかんどう)の辺からも往けるそうだが、銀閣寺の傍、昔の浄土寺村のところから入って往くのが一番近く、大文字の日に護摩木(ごまき)納め*にゆく人達も、みんなこの道を選ぶらしい。こっちから見ると、丁度大の字の線の交錯しているところに、一軒の小屋が建っていて、そこには時々旗など翻っているのを見ることがあったが、登山した人に聴いて見ると、それは弘法大師を祀った御堂であって、大文字の送り火の燃やされる晩には、いつもはがらんとして薄暗い堂の中にも、蠍燭の灯があかあかと点り、読経やら何やら盂蘭盆(うらぼん)の供養が行われるのだそうである。

*護摩木納め 無病息災を願ってそれぞれの名前を書いた護摩木が納められる

 吉井がここで描いている送り火の光景は、1939(昭和14)年頃のこと。五山の送り火は、戦争中の1943年から灯火管制や薪不足が理由で中止になりますが(1946年に再開)、この頃はまだゆったりとした時代の空気が流れていたのでしょう。夕日に染まる山腹が目に浮かんできます。

私は去年の夏八月十六日に、始めて私の家の二階から、如意嶽に大文字の火が点るのを眺めたのだが、その日は山の方を見ていると、もう午頃から艘磨木を持って登って往く人が絡繹(らくえき)とつづいて、すべてで七十五個あるという火壺の周りには、薪を組み上げたり、護摩木を積み重ねたりしているらしい人影が、群がる虫のように動いていた 。

夕方になると、人出はだんだん激しくなり、山腹の斑らに茂った青草のうえに、丁度こことは向い合いになっている愛宕山の方から、真っ赤な夕方が射しかけて来る時分には、かなり離れて眺めていても、そこらに動いている人達や、それを取り囲んで見物している人達の興奮している心持が、ありありとこっちの胸に感じられる位、底の知れないざわめきの気勢が山に満ちて、何やら叫び合っている声までが、風に伝わってひびいて来るように思えた。

 夕方になると、いよいよ大文字の送り火のクライマックスが近づいてきます。遠くから眺めている吉井にも、山腹の人々の興奮や緊張感が空から伝わってきて、何か大きな舞台の幕開けを待っているような胸の高まりを感じずにはいられません。

日が暮れてから間もなく、ぼんやり長火鉢の傍で一酌していると、
「あッ、火が点いたえ。」
「おお、綺麗なこと。」
「早う出て見てお見やす。」
という何処かでけたたましく叫びかわす声 。急いで二階に駈け上がつて見ると、とっぷりと暮れた宵闘の、真っ暗な空を焦さむばかり、直ぐ目の前で大文字の火が、焔々(えんえん)として燃え上がっている。昼間思ったよりも更に近く、渦を巻いている火煙や、その周りをうろうろしている黒い人影などはっきり見えて、そこら一面あかあかと、夕日を浴びたように明るい 。

 昭和14年頃の京都は、今よりもずっと街灯が少なく、ライトアップされた建物などなかったのではないでしょうか。明かりの少ない真夏の暗い夜空に、くっきりと燃え上がる大の一文字。吉井ならずとも感動を覚える瞬間です。

不図(ふと)気が付いて反対側の窓を開けて見ると、もう既に船岡山の弘誓の船を始め、妙法の二字も、左大文字も、夜空に赤く送り火の供養の焔を燃やしていた。

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西賀茂船山の「船形」

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松ヶ崎西山・東山の「妙(左)・法(右)」

 京都の五山の送り火は、すべて京都市登録無形民俗文化財に指定されています。市民の生活に基盤を持つ行事ではあるものの、その芸術的な美しさは、まさに未来に残したい文化財そのものです。実際に自分の目で見ることで、感動はさらに深まります。京都の夏を彩る五山の送り火。一生に一度は見てみたいものの一つです。その日は、きっと思い出に残る夜になることでしょう。

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祇園にある吉井勇の歌碑。「かにかくに祇園はこひし寐(ぬ)るときも枕のしたを水のながるる」。古稀(70歳)のお祝いに谷崎潤一郎らによって昭和30年11月8日に建てられた。今も、吉井を偲ぶ「かにかくに祭」が毎年11月に行われている。
■祇園商店街振興組合
https://www.gion.or.jp/maiko/かにかくに祭
写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

出典:吉井勇『洛北随筆』
文=藤岡比左志

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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