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うず潮の街でつむがれる半生記(鳴門・鳴門線)|終着駅に行ってきました#8

かつては日本を代表する塩の生産地として隆盛を極めた、鳴門。その街にある小さな終着駅には、今も昔も人々を乗せた列車が発着しています。多くのお遍路さんたちも歩いたという、撫養(むや)街道。その一隅にたたずむ小料理屋で、夜は、温かくしっぽりと更けていきます。(連載:終着駅に行ってきました
文=服部夏生 写真=三原久明

「終着駅は始発駅って言いますものね」

 居酒屋のカウンターの内側で、ぼくたちがこの街に来た理由を聞いた女将は、しみじみと言ってうなずいた。北島三郎が歌った名曲の題名が出て、小さな店内の夜は、昭和調のノスタルジーをたたえながらしっとりと更けていく。

 * * *

 鳴門駅にはまだ日の高い時間に到着した。

 徳島駅からJR鳴門線の気動車に乗り込んで約30分。大きくカーブした先に終着駅が現れた。ホームに降り立つと、「なると金時のまち」「人間愛に包まれた第九アジア初演の地」と書かれた大きな看板が目に入る。その横をすり抜けて線路を越え、改札と駅舎を通り抜けると、駅前のロータリーに出た。

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 がらんとした広場の周りに、お店は数えるほどしかない。下校する高校生たちが賑やかに自転車置き場へと去った後は人通りも絶えてしまった。人口約5万5千人、徳島県第3の大きさの鳴門市の玄関口というにはいささか寂しい風景だ。

 * * *

「まずは、荷物を置きに行こうよ」

 ミハラさんに促されて、ホテルを目指し、市街地と思しき方向へと向かっていった。幾分かお店が目に入るようにはなったものの、人通りは変わらず少ない。片側2車線の立派な道路を走る車もまばらだ。

「そうよねえ、駅前、お店少ないでしょう」

 ホテルの受付にいた女性は、早すぎる時間のチェックインにも、嫌な顔ひとつせず対応してくれた。その親切さに勢いを得て「おいしい店、ないですかね」と尋ねると、ホテルお手製の周辺案内の紙を手に「地元の私からのおすすめ」を教えてくれた。

「やっぱり、おいしいって言えば、徳島ラーメンよね」

「うーん。できればゆっくりお酒が飲めるところがいいんですけど」

「そうねえ、駅前だったら、こことここくらいかしら。そういえばお客さんたち、車はどこに置きました?」

「あ、鳴門線で来たんです」

 珍しいわねえ、鉄道でこの街に来るなんて。彼女はそう言って笑ってから、ここら辺の人たちは、外食も車に乗って行くからね。と少しすまなさそうな顔をした。

 * * *

 夕食まではまだ時間があった。鳴門線を撮影すると言って、線路の方へ向かうミハラさんを見送り、街をぶらついた。目についた本屋に入ると、郷土史コーナーが設けられていた。興味をそそられて棚の前に立つと、女性の店員がカウンターを離れて近づいてきた。

「街の歴史に興味がおありですか?」

「あ、はい」

 あらそう、と嬉しそうな顔をしている彼女が、この郷土史コーナーをこしらえたのは間違いなさそうだ。駅に着いた時から気になっていたことを聞いてみた。

「この本の題名になっている『第九』ってベートーベンの曲ですよね。駅の看板にも書いてあったんですけれど、ここと関係があるんですか」

「あるのよ」

 よくぞ聞いてくれたとばかりに即答した彼女から聞く「鳴門と第九の関係」は、第1次世界大戦で捕虜となってこの地に収容されたドイツ兵たちと、地元の人たちとの交流に端を発するもので、なかなかに心温まる話だった。彼女の話はどんどん熱をおび、ついには奥の倉庫から新聞記事のスクラップまで持ち出されてきた。30分ほど聞いてから、話にきりをつける意味もあって自費出版された関連本を購入すると、「記念に」とその本のポスターまでおまけにつけてくれた。

「ああ、そうねえ。うーん、学生さんたちは乗っているわよ」

 郷土愛に満ちた彼女に、鉄道のことを聞いてみると、第九と真逆の低いテンションで答えが返ってきた。

「私、あんまり乗らないのよ、ごめんね」

 * * *

 鳴門線は、1916(大正5)年に阿波電気鉄道として開通した。開業当初の終着駅だった撫養(むや)駅は街はずれにあったが、街中を流れる撫養川を渡って、海辺の撫養港まで延伸することが計画されていた。

 徳島は江戸時代から塩の産地として、一時は全国の生産高の約1割を占めるほどの隆盛を極めていた。ひときわ盛んだった鳴門で出来上がった塩は、撫養港から全国に運び出されていた。港まで線路を伸ばし、荷馬車に代わって鉄道が陸運を担うことは必然と思われたが、計画はなかなか進まなかった。地元からの猛反対があったのだ。海岸まで広がる塩田を所有する塩業者たちは煙害を懸念し、水運業者たちは撫養川の鉄橋で船を通せなくなることに憤った。仕方なく、撫養川に突き当たる手前で急カーブを描いた先にひとまず作ったのが、現在の鳴門駅の前身となる2代目撫養駅である。完成したのは1928(昭和3)年。その後、国有化されて鳴門駅に改称し、戦後、現在の場所に少しだけ移転した。

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 その間、塩の製法はより効率的な方法に取って代わる。塩田は急速に姿を消し、鳴門は塩の産地としての役目をほぼ終えた。鳴門線はついに港へと線路を伸ばすことはできなかったが、現在に至るまで、通勤・通学客を中心に需要を保ち続けてきた。しかし、街はずれにたたずむその終着駅には、歴史こそあれ、郷土愛をそそるような「いい話」は存在しないようだ。 

 * * *

 本屋から少し歩くと、大きな街道に出た。両端の歩道にはアーケードが設けられ、店が立ち並ぶが、開いているところは半分程度である。そこに米津玄師の歌が大音量で響き渡っている。前年(2018年)の紅白歌合戦に出場を果たしたことで、彼は全国区の歌手となっていたが、出身は徳島県なのである。

「そうなのよ。それが、もう今じゃ、あっちこっちで歌が流れているものね」

「紅白で歌った美術館、ちょっと先に行ったところにあるのよ、知ってる?」

 メモ帳を買おうと入った文房具屋にいたふたりの女性に、地元のポップスターの話を振ると、たちまち会話に花が咲いた。

「それにしても広い道ですね」

「撫養街道って言うの。私たちが子どもの頃は、ここを大勢が行き来していたのよ」

「道は港に続いていてね、そこから塩を運び出していたの」

「お遍路さんも歩いていた」

「そうそう。商店街、ちょっと寂しくなっちゃったけど、私たちが子どもの頃には、まだこの辺も活気があってね。映画館もあったし」

「そこ、親戚の叔父さんが経営していたから、私、ただで見せてもらってたのよ」

「あら、よかったじゃない」

 思い出話が次々に出てきた。ふたりは「生まれも育ちも鳴門」の幼なじみだという。地元の人に聞きたいことがあった。

「撫養港の方に海水浴場ありますよね。岡崎海岸。ぼく、子どもの頃行ってたんですよ。父の実家が徳島だったんです」

 ふたりの顔がパッと明るくなった。

「あらそう。わたしたちもね」

 そう言って、顔を見合わせるとふふと笑った。

「夏休みが40日でしょ。そのうち30日は岡崎海岸で泳いでいたわよ」

「あそこ、遠浅だから、遊びやすかったのよね」

「そうそう、で、真っ黒に日焼けして。どっちが前か後ろかわからない、なんて親に言われてね」

 70歳だというふたりは、楽しそうにころころと笑っている。ふたりとも高校生時代は鳴門線に乗って通学したという。その頃の姿が、目に浮かぶようだった。

「海岸、今、どうなっているんですか?」

「ああ、護岸工事をして、砂浜はなくなっちゃったの」

「少し前にね、砂利をさらってから雰囲気も変わっちゃったわよね」

 変貌した海岸を見たい気もしたが、日も暮れ始めていた。

「いい街よ。ずいぶん小さくなったけど、その分こじんまりとまとまって、住みやすいもの」

 そんな言葉に見送られて、外に出ると、気のはやい街灯が煌々と光っていた。

 * * *

「やっぱりラーメン屋がいいな」

 先ほどのホテルでの会話が頭に残っていたのだろう、ミハラさんは、徳島ラーメンを大いに推してきた。

「うーん、ぼくも食べたいけど、おすすめの店って、多分、行列に並んでカウンターで食べるようなところでしょ。長居できないし、周りの人にも話聞けないし」

 珍しくお店選びで抵抗するぼくに、ミハラさんはちょっと驚いたような顔をした。

「気の荒い店主だったら、呑気な質問していたら『待ってる客がいるんだ、とっとと食え』って、おたまで頭はたかれるかもしれないし」

「それはないよ」

「ないですかね」

「でも、言ってることはわかる。じゃあ、どこにしよう」

「どこにしましょう」

 ホテルの女性に教えてもらった店は、今ひとつ食指が動かなかった。仕方なくだらだらと歩いていくと、焼肉屋が目に入った。幾分かの期待を込めて、曇りガラスの戸を開けると、そこそこ広い店内に家族づれがひと組しかいなかった。どう考えても一見の客が入って会話が弾むシチュエーションではない。だが、「いらっしゃい!」と店主に言われてしまうと、引き返す勇気も出ない。

 ミハラさんの「ラーメン食べたほうがよかったじゃないの」という、『仁義なき戦い』の菅原文太ばりの無言の圧をひしひしと感じながら食べる焼き肉は、しかし、うまかった。

「もう1軒行こう」

 うまいもんは、人の心を穏やかにさせる。ミハラさんは、文太風の眉間の皺を緩め、ぼくの思いを汲み取った提案をしてくれた。

「商店街の裏に気になる小料理屋があったんだよ」

「1軒だけあるお店でしょ。そこ、ぼくも気になっていました」

 先ほどの険悪なムードはどこへやら、焼肉屋を腹八分目で切り上げたぼくたちは、いそいそと撫養街道へと戻り、そこから伸びる1本の路地で、ぽつりとあかりを灯す店に入った。

 * * *

「うち、メニューがないんですよ」

 小料理屋は、女将がひとりで切り盛りしていた。先客は30がらみの男性だけである。ひとまずビールを頼んで、店内をぐるりと見渡し出したぼくたちを見て、女将は幾分ためらいがちに話しかけてきた。聞けば、その日できるものを出していくスタイルなのだという。なんでも美味しく食べますと告げたら、鳥レバーの煮込みとしめさばが出てきた。言われるまま、煮込みに山椒の実を、しめさばにすだちをかけると、濃厚な味と清涼さがないまぜになって、見事な酒のあてになった。

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「うまいです」

「あら、嬉しい」

 女将の華やいだ声に、カウンターの端に座った男性客もうんうんとうなずく。常連かと思いきや、大阪から出張で鳴門に来ているのだという。

「夜やることなくて。外に出たら、ここを見つけたんですよ」

 とにこやかに語る彼は、ビールをハイボールに切り替えて、腰を落ち着ける体勢に入っていた。小体の酒場で少人数で過ごす時特有の、暖かく静かな雨が降っているような親密感のある空気が店の中に漂いはじめた。

「このお店は、どれくらいになるんですか」

 ビールから日本酒に切り替えることを告げてから、女将に問うた。

「もう40年」

「鳴門の方なんですか」

「ううん、私も元々は大阪の人間なのよ」

 へえ、とハイボール氏がうなずく。

「もう死んじゃったんだけど、この店を開いたのは旦那なの。寿司職人でね、全国で修業したんだけど、『鳴門の魚が一番うまい』って言って、ここでお寿司屋さんを開くことにしたの」

 そう言われてみると、カウンターの前には、寿司種を並べるガラスケースが残っているし、板場も本格的な料理ができそうな立派な作りだ。そこかしこに寿司屋の名残がある。

「そうでしょ。旦那は手先が器用でね、欄間の飾りなんかも自分で作っちゃってね」

「ほんとだ」

「ちょっと変わった作りなんだけどね」

 ぬる燗の日本酒が出されて、少し沈黙が流れた。

「おふたりは、どこからいらしたの?」

「東京なんです」

「あら、遠くからようこそ」

「あの、俺、この前、東京で蕎麦食べたんですけど、つゆがすごく辛くてびっくりしたんですよ」

 ハイボール氏が会話に入ってきた。

「あれはね、辛いけど、ただ辛いんじゃない。癖になるんですよ。ちなみにどこで食べました?」

 生まれも育ちも東京のミハラさんが応じる。

「えーと、さらしな、だったかな」

「なるほど。江戸の蕎麦にはみっつ流派がありましてね、藪に砂場、そして今おっしゃった更科ってえのがあるンです」

 酔いが回ったのか、口調がどことなく小さん風になったミハラさんの蕎麦講釈を、実直そうなハイボール氏はふむふむと聞いている。

「鳴門、長いんですね」

 ふたりの会話がまだ続きそうなので、女将に話しかけた。

「そう、今は、ボランティアで観光ガイドもやっているの」

「へえ、うず潮とか紹介してるんですか」

「うん、なかなか綺麗なうず潮をお見せできないんだけどね。タイミングがあるから。でもせっかくいらした方に鳴門のいいところを堪能してもらいたいじゃない」

「すっかり鳴門の人になってるなあ」

「まあね。でも、来た頃は、初めての場所で、知り合いもいなかったから不安だったわよ。ひとりになってお店を続けることにした時も、心の底では『大丈夫かな』って心配だった。なんとかここまで続けられたけれどね」

「ひとりになって、大阪に戻ろうとは思いませんでした?」

 不躾さへの躊躇もあったが、思い切って聞いてみた。

「それはなかったかも」

 女将の即答は、ぼくを安心させた。だが、彼女はそのまま口をつぐんだ。余計なことを言ったと再び不安が首をもたげ出した瞬間に、女将は、上を向いて、過去を振り返るように一瞬、目を細めた。

「住めば都よ。もちろん、いろいろあったけど。でも、自分の心持ちひとつで、良くもなるし悪くもなる。ここに住んで、大当たりだった、私は」

 もう一度、住めば都、と言って微笑んだ女将は、一流の役者だった。ここは亡夫が築き、彼女が演じ続けてきた「劇場」である。いつの間にか聞き入っていたミハラさんとハイボール氏も大衆演劇の観客のように、情緒たっぷりにうなずいた。

 * * *

 翌朝、早起きして、撫養街道を海辺まで歩いた。

 商店街の突き当たりにある踏切を越えると、撫養川にぶつかる。かつては船着場があり、大いに賑わったという川面には、釣船やクルーザーが何艘か係留されている。石の欄干が残る橋を越えると道は狭くなり、両脇にかつての塩問屋や海運業者と思しき大きな家が並ぶ。その先へと歩を進めると、次第に、かつて塩田だったと思しき畑が目立つようになり、海辺に近づくにつれ、それが新興住宅街へと変貌していく。穏やかな景色の中を30分も歩かないうちに、海に突き当たった。右に曲がるとすぐに岡崎海岸だった。

 対岸がすぐそばにあり、狭い水路を、漁船から貨物船までが航行している光景は、子どもの頃の記憶と同じだった。だが、砂浜はコンクリートで固められ、海水浴場の面影はなかった。

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「ずいぶん変わったなあ」

 呟いたつもりだったが、横に立っていた年配の男性の耳に入ったようだ。

「そうだねえ」

「子どもの頃、よく遊びに来ていたんですよ。砂浜でしたよね」

「うん、そうだった。台風が来ると波が砂をさらっていってねえ。砂を入れたりしていたんだよ」

 夏にだけ来ていた「お客様」だったぼくは、そんな事情があったことはまるで知らなかった。護岸された今は、子どもたちが泳ぐことは難しそうだが、その分、釣りの格好のスポットとなっているようで、釣り竿をたらす人の姿が目についた。

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 かつて徳島を代表する港だった撫養港も、その面影をまるで残していなかった。そもそもぼくが子どもの頃にも港があった記憶はない。砂浜といい港といい、どれほど大きなものでも、用を終えたものが姿を消す速度は、ぼくたちが想像する以上にはやい。

 河口にあるかろうじて残る小さな船着場には、市営の渡し舟が停泊していた。まだ昼まで時間はある。自転車に乗った親子連れと一緒に、対岸の大毛島へと渡ってみることにした。

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 島は、午前の陽光を浴びながら、静まりかえっていた。「本土」側からも目についていた造船所だけが、大勢の人が行き来して活気を見せている。新造船の製作の様子を横目に眺めながら、脇の坂道を上り歩行者専用のトンネルをくぐると、さつま芋畑が広がる見晴らしのいい場所に出た。街道をもう少し先へ行くと、紅白で米津玄師が舞台にした大塚国際美術館があると、大きな看板が告げていた。

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 さっきまで歩いてきた旧街道の続きのような、のどかな風景を歩きながら、ぼくは父の少年時代の話を思い出していた。

 父の実家は、父親(ぼくの祖父だ)がシベリアに抑留されたこともあり、戦後しばらく経済的に困窮したらしい。母親(しつこいようだがぼくの祖母だ)は、やむなく鳴門の大毛島にある自身の実家に援助を頼んだ。徳島市内の長屋から10数キロ歩いて、母親の実家まで食料を受け取りに行くのが、当時小学生だったぼくの父の役目だったのである。

「小さなリヤカーを引いていくんだ」

 父は、その時の話を、ぼくに幼少期から繰り返して語ってきた。

「撫養の集落に入ると、近所の子どもたちが、よそ者が来たって石を投げるんだよ。もうそれが嫌で嫌で。うちが頭を下げて、食べ物を分けてもらっているのも、子ども心にも理解していたから、余計に惨めな気分でね」

 父の話は大体の場合、食べる物がない辛さから、それを回避するための経済的自立の必要性という教示的内容に収束するので、正直、「鳴門噺」が始まるたびにうんざりしていた(大体、さつま芋が出てくると始まるので、天ぷらや大学芋が食卓に出る日は要注意だった)。だが、何度も聞かされてきたので、土ぼこり舞う道を延々歩いてきた街の少年が、悪童どもに虐められている光景が、いつしか映像として目に浮かぶまでになっていた。戦後は誰もが大変だったと聞くが、それを差し引いたとしても、しんどいものだったことは想像に難くない。

 * * *

 鳴門にはロクでもない思い出しかないはずの父だが、少し前に徳島に家族旅行に連れていった時には、「母親の実家」を探したい、と言い出した。

「ここら辺だったと思うんだよ。渡し舟も乗ったよなあ」

 父の記憶に従って、大毛島の穏やかな入江沿いの集落を車で何往復かした。比較的新しい住宅地となっていたこともあって、かれこれ1時間近く探しても特定できなかった。

「ありがとう、もういいよ」

 夕暮れの中、父はついに諦めた。 

「優しいおばさんが、よく来たねって、さつま芋とか持たせてくれてね。それを見るとほっとした。体力的にはきついけれど、母親や妹たちも喜んでくれるだろうなって思うから、重ければ重いほど、帰り道は嬉しかった」

 ぼくが子どもだった頃には、語られたことのないエピソードだった。

「ちょうど今みたいな夕暮れの中、歩いてね」

 80歳を超えて、父はいまだかくしゃくとしている。だが、孫が大きくなるにつれて、新しい、それもポジティブなエピソードをしばしば披露するようになった。ぼくが子どもの頃は、特に故郷にまつわることに関しては、ネガティブなものいいが常だっただけに、その変わりぶりが興味深くもあった。

 住めば都よ、良い悪いなんて、心持ちひとつで変わるものだからね、という昨夜の女将の言葉が蘇ってきた。街を支える核たり得た「塩」がなくなり、その中心部は、多くの地方都市と同じく空洞化が進み、かつての砂浜や港、そして塩田は「益」とならなくなって、あっさりと姿を消している。

 だが、それらをもってして、斜陽で味わいの乏しい街と断じることは、とてもできないくらいには、ぼくは鳴門のことが好きになっている。言うまでもないが、出会って会話を交わした人たちがいるからである。

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 ドイツ兵捕虜に温かく接し、海水浴場で真っ黒に日焼けするまで無邪気に遊んできた「鳴門の人々」は、その一方で、又聞きとはいえ、よそ者に石を投げつけるような意地悪さも持ち合わせているようだ。どちらも街の人々の姿の「一面」を表すものでしかないだろう。物事には必ず表と裏がある。女将が言ったように受け取る側の心持ちひとつで、印象はいかようにも色合いを変える。だから、人にまつわる森羅万象の断定は容易にしない方が、賢明というものだろう。

 石投げに象徴されるように、未知のものを排除し、既存のもの以外を受け入れようとしない頑迷さを持つ「田舎」として、父は故郷を常に悪く言ってきた。その彼が、暗い色合いをモチーフにしてきた画家が、老成してから明るい挿し色を入れ始めるように、ポジティブな話をし始めた。理由は、わからない。ただ、晩年になって、自身の後ろめたさや劣等感から生まれたと思しき「決めつけ」を退け、生まれ育った地や人々の良き部分を語り始めたことを、息子のぼくは、素直に喜んでいいように思えてきた。

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 ぼくにとって終着駅だった鳴門は、父にとっては、さつま芋をたくさん積んで家族が待つ家に帰る始発駅だった。後に故郷を飛び出し、学問を重ねて学者として半生を過ごした父に、彼とは正反対に、この地に根をおろした小料理屋の女将について話してみたい、と感じた。

「劇場みたいにドラマチックに半生を語ってくれるんだ」

 生き続けてきた人たちがつむぐ言葉は、ぼくたちが、自らを振り返り、自らの歩みを認め、受け止めることを、そっと後押ししてくれる。

 * * *

「そろそろ昼だね」

 青空の広がる景色を撮影していたミハラさんが、声をかけてきた。

「駅の方に戻りましょうか」

「俺さ、ラーメン食べたいんだよね」

「もちろん、ぼくもです」

 ぼくたちは、最大の懸案事項だった徳島ラーメンを食べるべく、船着場へと急ぐのであった。

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文=服部夏生 写真=三原久明

【書籍化のお知らせ】
本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年5月18日に天夢人社より刊行されます。現在、Amazonにて予約受付中です!

服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのちに、フリーランスの編集&ライターに。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。他、各紙誌にて「職人」「伝統」「東京」といったテーマで連載等も。趣味は、英才教育(!?)の結果みごと「鉄」となった長男との鈍行列車の旅。
三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2019年5月に取材されたものです。

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