唐招提寺の鑑真和上像に込められた弟子たちの想い──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』
唐招提寺の忍基は、講堂の梁が折れる夢を見た。
眼が覚めた忍基は、これは鑑真和上が亡くなる知らせに違いないと考えた。
いやだ。師がいない世界で生きるのは耐えがたい。鑑真和上は、ほかのどこにもいない、最高の師だった。
弟子たちは、師が生きておられるうちに、肖像を造ることにした。師の姿をこの世に留めるために。
まず、土で師の姿を造る。その上に麻布を漆で何枚も貼り重ねていく。一番上には、師の衣をいただいて着せた。それが終わると、背中に窓を開け、中の土を取り出す。
麻布の上には木屑漆を塗って造形していく。木屑漆とは漆に木の屑を混ぜたもので、バターをトーストにバターナイフで塗るように、通常はへらを使って塗っていくものだが、それでは師との間に距離ができてしまう。木屑漆を指ですくい取り、指で塗る。まもなくこの世を去っていく師のお顔の細部を自分の指先で造り出す。
へらで塗れば平滑にきれいに仕上げられるが、指ではそうはいかない。どうしても凹凸ができてしまう。しかし、自分の指で塗ることで、師とひとつになれる。
木屑漆が乾くと彩色する。袈裟を着ている師のお姿。着ふるして糸がほつれているのをその通り描いていく。眼は閉じている。まつ毛が下瞼に貼りついている。
師の眼が不自由になったのはつい最近のことだった。
のちに、孫弟子の豊安が、亡くなる直前に眼が不自由になったと書き残している。
眼は閉じているが、どこか遠くの何かを、やさしく見ているような、そんな表情をいつもしておられる。その通りに造ることができた。うれしい。そして悲しい。
900年後、松尾芭蕉は、この肖像を見て句を詠んだ。
若葉して御目の雫拭はばや
御目の雫とは、涙のこと。芭蕉には、鑑真和上が泣いているように見えた。柔らかい若葉で涙をぬぐってさしあげたい。
鑑真和上は泣いているのだろうか。もしも本当に泣いているのなら、何がそんなに悲しいのか。たぶん、弟子が36人も死んでしまったからだろう。
弟子たちは、全員が、日本へは行きたくないと言った。日本は遠い。百度行こうとしても着くことはない。
鑑真和上は言った。「では私が行こう」
苦難の日々はこうして始まり、師と同行することを望んだ36人の弟子が、日本に着くことなく死んだ。
死んだ弟子を思い、思わず涙ぐむ。そんなことがあっても決して不思議ではない。
天平宝字7年(763)5月6日、鑑真和上は亡くなった。日本に来て10年。76歳だった。「願はくは坐して死なん」と言っておられた通り、西に向かって坐り、坐ったまま亡くなった。
亡くなって3日が過ぎても頭の頂が温かかった。
鑑真和上が亡くなった住房は講堂の西北にあり、肖像は鑑真和上が在ますが如くに、その住房に安置された。
境内の東北にお墓がある。「鑑真大和上御廟」と書かれた木札が懸る小さな門をくぐると、お墓へ至る小径の左右は美しい苔で覆われている。
静謐な世界に入り込むと、言葉を出すことさえためらわれる。
小径の突き当りに墳丘があり、これが鑑真和上のお墓と伝えられている。墳丘の上には、のちの時代の宝篋印塔が建っている。
墳丘の前には瓊花の木が植えられている。鑑真和上の故郷、揚州にしか咲かないといわれる瓊花。揚州市から贈られた瓊花が、唐招提寺を気に入ったのか、特に御影堂の西側では大きく成長して、五月初めの連休のころに、ガクアジサイに似た白くて美しい花を咲かせる。
(2022年2月23日)
文=西山厚
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