日本人のわたしがトルコで建築史を教える|イスタンブル便り
この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、トルコの大学で建築史を教える筆者が、一年半ぶりに対面授業が再開された感慨を綴ります。
朝7時25分。
自宅から歩いて5分足らずの船着場から、ボスフォラス海峡を渡る定期船に乗る。10分でヨーロッパ側に着く。バスもあるのだが、大学まで20分ほど歩く。
人口1600万といわれるメガ都市イスタンブルで、ボスフォラス海峡は大いなる空白である。朝の海の空気は、 たしかにそう思わせてくれる。そしてたった10分の航路でも、船上でチャイを飲むことができる。トルコの人は、そういうほんのひとときを見つけるのが、じつにうまい。
イスタンブル工科大学の新学期は、今年は十月一日に始まった。
「みなさん、ようこそ。MIM321E、 近現代建築史の講座です。教室を間違えてる人はいませんか? わたしがみなさんの講師、ジラルデッリ青木美由紀です。ご覧の通り、と言っても、マスクがあるので、どこまで見えてるかわかりませんが、日本人です」
緊張気味の教室の空気が、少しほぐれた。
コロナで完全オンラインだった一年半を経て、ひさしぶりの教室での初講義。期間中、時々訪れたキャンパスは、死のように無人だった。それが今日、中庭に、廊下に、生き生きとしたエネルギーが満ち溢れている。
「イタリアの苗字なのは、イタリア人と結婚しているからですが、生まれも育ちも日本、けれど、この大学、イスタンブル工科大学で、博士号を取得しました。つまり、みなさんの先輩なんですよ」
そういうと、学生たちの眼が輝いた。
イスタンブル工科大学は、トルコのトップ校のひとつである。わたしが教鞭をとる建築学部では、トルコ語と英語、二つのコースがあるので、国際色豊かだ。トルコ人学生のほか、中東やバルカン半島などからディプロマ(卒業証明書)取得目的の外国人学生もいる。ヨーロッパから一学期だけの交換留学生もいる。担当するのは、英語コースの建築史の講座。授業は英語である。
数年前、母校に迎えられ、教えることになった時、戸惑いがあった。
建築家でもないのに、未来の建築家たちに建築史を教えるのか、という問題はさておき、それより大きなためらいがある。
トルコ人学生にトルコ建築史を教える場面もあるのだ。
想像してみてほしい。日本の大学で、たとえばトルコ人教員が、日本人学生に日本建築史を教える、という状況。かなりシュールではないだろうか。
ところが、学生たちはあんがい寛大だ。同僚たちも同様である。学部長にいたっては、初日にこう言われた。
「違う視点からの講義を期待する」
「変わってる」、それはトルコでは、褒め言葉なのである。
学生事情は、わたしが大学院に留学してきた頃とはたいへんな違いである。
当時はまず、日本人どころか、外国人は一人もいなかった。当然、授業はすべてトルコ語。同級生は全員イスタンブル、しかも大半が名家の出身。美術史と建築、専攻の違いもあると思うが、大学院に来るのはトルコ人のエリートに限られていた。
大学に行くのは特別なことではなくなった。それが、トルコという国がこの25年の間に経験した変化のひとつである。男女比率も、だいたい半々だったのが、現在は、ざっと6対4くらいの割合で、女子学生の方が多い。教員も同様で、過半数が女性。建築史講座では、8人の専任のうち、5人が女性だ。
大教室の講義には、アシスタントがつく。オイク(「物語」という意味)とは、初めて一緒に組むので、打ち合わせの後、尋ねてみた。彼女は博士課程の学生で、ビザンチン建築史の専攻である。
「出身はどこ?」
「エディルネです」
エディルネとは、オスマン帝国の最初の首都。ユネスコ世界遺産のセリミエ・モスクがある。現在のブルガリア、ギリシャとの国境に近い街だ。
聞けば彼女はイスタンブルのど真ん中にある名門校、ガラタサライ高校出身だそうだ。この学校、教育はすべてフランス語である。
「え、高校からイスタンブル? じゃあ、寮に入ってたの?」
「はい、高校の敷地内に寮があるんです」
オスマン帝国時代、スルタンの側近候補を育てた宮廷学校が前身だから、寮があるのは当然だ。
「女子寮もあるの?」
「はい、寮にいるのは150人くらいですが、女子は80人くらいいたと思います」。過半数ではないか。
「わたしも娘がいて、今外国で寮に入って高校に通っているの。母としては、とても大きな決断のつもりだったけど、トルコではけっこう普通なの?」
「そうですね、地方の家庭は、イスタンブル、アンカラ、イズミルなどの大都市で子供に教育を受けさせる人が大半ですね」
もちろん、教育熱心、かつ経済力のある家庭に限られることだ。だが、大都市と地方の格差が大きいからこそ、地方出身の優秀な子供を育てる寮の制度も整っているということだろう。
そういえば、わたしが論文指導をしている大学院学生も、一人はシリア国境に近いアダナ、もう一人はエーゲ海地方のアイドゥン出身、他にはアナトリアのボル出身。イスタンブルっ子は一人だけである。
一日の講義を終わらせると、「弟子」たちが、待っていてくれた。一年半ぶりの、実際の対面である。
明るい陽の差す中庭に座った。
この美しい中庭は、「タシュクシュラ(石の兵舎)」と愛称される「ロ」の字形の建物の真ん中にある。歴史的建造物なのである。
石造りの兵舎が珍しかった時代の呼び名で、もとはオスマン帝国陸軍の士官学校である。建築家はイギリス人のウィリアム・スミス。
中庭では、学生や教員が思い思いの時間を過ごす。それが当たり前だった中庭は、猫だけがいる一年半を過ごした。今日は格別の喜びに満ちている。
池のほとりに、ごろりと3~4個、ビザンチン時代の柱頭が転がっている。以前、どこかの道路工事で出土して、調査に呼ばれた建築史教授が、置き場もないので、と大学に持ってきたものらしい。学生たちはその上に座って、友達とおしゃべりしている。
初めてみたときは驚いたが、こういう豊かさ、それを意に介さない無造作さがトルコらしい。
「弟子」の一人は、夏休みに行ったロシア旅行のことを目を輝かせて語ってくれた。もう一人は、 修士論文のテーマの相談、日本のことを研究したいらしい。
隔離期間中、一人暮らしや家庭の事情で、辛い時期を過ごした学生もいた。
会えて嬉しい。その感じがじかに伝わってくる。新学期が、ひとりひとりにとって実り多いものになるよう願ってやまない。
午後の日差しが、濃いピンク色の壁に木の葉の影を落としていた。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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