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「三日天下」で終わらなければ明智光秀は将軍になれたのか? 二木謙一(國學院大學名誉教授)

聞き手:ウェッジ書籍編集室

 撮り直しで巷の話題となった大河ドラマ「麒麟がくる」(長谷川博己主演)は、1月19日からの放送開始以来、視聴率も好調をキープしている。主人公・明智光秀は主君・織田信長を本能寺で暗殺したことで知られるが、大方のイメージは悪いだろう。だが、足利将軍の権威が失墜した戦国時代は文字通り「下剋上」の時代であり、天下人を目指す人物が登場しても不思議ではなかった。武門のトップといえば「征夷大将軍」であるが、光秀も「三日天下」に終わらなければ、天下人として明智幕府を開いていた可能性も考えられる。

『征夷大将軍になり損ねた男たち』(二木謙一編著、ウェッジ刊)では、光秀をはじめ、人望、血統、派閥、不運、病魔、讒言などの理由で、将軍になり損なった47人の人物をクローズアップ。どの事例も歴史ファンに限らず、組織の中に生き、閉塞感漂う時代に好機を見出したい現代人にも通じることばかりだ。

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 今回のインタビューでは、歴史学者の二木謙一氏に、光秀が「三日天下」で終わっていなければ将軍に就いていた可能性についてお話いただきました。

▼インタビュー動画はこちら(2分2秒)

本能寺の変はなぜ起きたのか?

 光秀謀反の動機や原因についてはさまざまな説があります。怨恨説、野望説、朝廷黒幕説、イエズス会黒幕説をはじめ、最近ではさまざまな奇説・珍説が横行していますが、いずれも決定的な確証はありません。

 学者で野望説を言い出したのが、私の先生でもある高柳光寿先生です。人物叢書の『明智光秀』の中で、当時の戦国武将はみな天下を取りたい、だから信長を倒したのだとし、それまでの怨恨説ばかりの状況に異を唱えました。

 また、桑田忠親先生は怨恨説と野望説の折衷案をとりました。積もり積もった怨恨があって、野望もあり、さらに将軍・足利義昭という黒幕もいたと。先生はさらに武士の面目についてもふれています。光秀は饗応役を取り上げられたうえに、格下の秀吉に従えと命じられたということ。主君殺しは江戸時代には悪いこととされましたが、当時は必ずしもそうではなかったことを指摘しています。

 光秀はかつて足利義昭に仕えていたため、室町幕府再興というもっともらしい説もありますが、これは少々うがちすぎている気がします。光秀は立身出世を夢みて、朝倉家から将軍家に鞍替えするも、将軍・義昭の将来を見越して信長に素早く鞍替えしています。しかも、隙あらば主君・信長を暗殺したわけで、このような光秀の本心などは誰にもわからないはずです。たしかに信長殺害後には、幕府再興という正義を標榜したかもしれませんが、このような光秀の過去の行動からすれば、本心とは思えません。

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福知山城は天正7年(1579)頃、丹波を平定した光秀によって築かれた(京都府福知山市)

光秀の謀叛はノイローゼが引き起こした!?

 私はノイローゼが原因ではないかと考えています。『明智軍記』によれば、中国攻めの直前に信長から、出雲・石見を攻め取った分は光秀の領地とするが、代わりに坂本などの領地は召し上げると伝えられたとあります。つまり、結果を確実に出さなければ左遷あるいはクビという大変厳しい条件を突き付けられたわけです。

 光秀は信長の譜代の家来ではなく、仕えてから十数年という短い期間であるにもかかわらず、家臣団のなかでは出世頭とも呼べる存在でした。つまり、信長からの信任はものすごく厚かったわけです。一方で信長は、佐久間信盛、林秀貞らのように譜代の重臣といえども、期待に添うような結果を出さない者には、過去の失態や些細なことを口実に容赦なく駆逐しています。このような先例を知る光秀は中国攻めを前に、クビになりそうだという危機感と不安を抱いていたとしてもおかしくはありません。

 だいぶ前に作家の津本陽さんとの対談で、管理職の評価が大変厳しい社長と、そういう上司のもとで疑心暗鬼になっている管理職との関係にたとえてお話したことがあります。下っ端の人間からすれば、信長ほどついていくのに安心な上司はいないわけです。実際に信長は戦にはめっぽう強い。つまり倒産も失業もなく、将来の心配がまったくない。戦で功績を出せば、給料はいいわけです。一方で、信長のことをもっとも恐れていたのが管理職、つまり光秀のような立場の人間です。光秀以外にも、信長は管理職に対して大変厳しいわけで、光秀はうかうかしていると自分の立場が危うくなる状況に危機感を抱き、ノイローゼになっていたとも考えられます。

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ご所有の火縄銃を構えた二木さん。江戸時代初期のものだという。

人望がなく勝ち運に恵まれなかった光秀

 光秀は本能寺で信長を暗殺後、わずか11日後に羽柴秀吉軍と山崎で対峙します。負け戦ののち、逃げる途上の小栗栖で命を落としました。このことから、短期間しか政権の保持ができないことを光秀にたとえ、いまでも「三日天下」という言葉が使われるくらいです。私は原則として歴史で「イフ」を考えないという立場をとりますが、ここでは「三日天下」で終わらなかったら、明智将軍の出現があり得たかどうかを簡単に述べておきましょう。

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本能寺の跡(京都市)。信長は本能寺の変以前にも、定宿として利用していた

 光秀が6月9日付で細川藤孝(幽斎)に送った自筆覚書の中でも、50日、100日のうちに近畿を平定するといっているように、光秀は信長の重臣たちが出払っているいま、信長を殺せば周囲の諸勢力は光秀になびき、畿内平定ができると考えていたことがうかがえます。ところが、期待に反して人々は動きませんでした。光秀は意外な反応に狼狽し、さぞかし焦燥にかられたことでしょう。

 同じ9日に、光秀は洛東吉田社の吉田兼見を訪ねて、朝廷に多額の金子を献じ五山をはじめ大徳寺・妙心寺などにも銀子を寄付し、洛中市民の税をも免じています。むろん歓心を集め、自己の立場を有利に導こうとしたわけですが、それでも世間は動きませんでした。

 平安以来何度も支配者の交替を経験してきた京都の人々は、光秀の想像を超えてはるかに慎重だったといえます。光秀の京都支配が、かりにもう1カ月も続いたなら、天下の形勢は有利に動いたかもしれません。時の権力者に媚びを売る勢力や大衆の動きも現れたはずです。そして好運が得られれば、光秀の将軍宣下、つまり明智幕府の出現があり得たかもしれません。その意味からすれば、光秀も本書のタイトルにあるように、「征夷大将軍になり損ねた男」であったといえるのではないでしょうか。

 けれども光秀は勝ち運に恵まれませんでした。秀吉が予想外のスピードで備中高松から引き返してきたからです。しかも、光秀軍の2倍半にあたる約4万の大軍を従えてきます。光秀は安土や佐和山など各地に守備兵を分散させており、全軍を集結させる余裕もないままに山崎で秀吉軍と対峙します。

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坂本城址公園近くの湖畔に立つ光秀像(滋賀県大津市)。光秀は山崎の戦いに敗れ、居城・坂本へ逃れる途中に落命した

 その後、光秀は勝ち運に乗った秀吉に敗れ去りました。運というものは実力があってこそ恵まれるものです。実力闘争の戦国乱世では、世論をひきつけるのは個人の力量であり、実力があればこそ大義名分もまかり通り、世間もまたこれを認めるといえるのではないでしょうか。

二木謙一(ふたき・けんいち)
1940年東京都生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。専門は有職故実・日本中世史。國學院大學教授・文学部長、豊島岡女子学園中学高等学校校長・理事長を歴任。1985年『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞。NHK大河ドラマの風俗・時代考証は「花の乱」から「軍師 官兵衛」まで14作品を担当。主な著書に『関ヶ原合戦』(中公新書)、『徳川家康』(ちくま新書)など多数。

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