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「何かを封印している?」異形の三柱鳥居が意味するもの──京都・木嶋坐天照御魂神社をめぐる2つの「謎」

京都というと、遷都後の平安時代以降の仏教・寺院というイメージが強いかもしれない。だが、遷都前からの歴史の古い神社もじつは多く、これらは平安時代以降のイメージに隠されてきた。意外にも、京都市周縁部には、平安京成立以前から祀られていた古社が多い。
この記事は、『京都古社に隠された歴史の謎』(古川順弘著、ウェッジ刊)から一部を抜粋したものです。


文=古川順弘(文筆家)

秦氏の里に鎮まる木嶋坐天照御魂神社

 京都・太秦にある大酒神社から東に10分ほど歩くと、木嶋坐天照御魂このしまにますあまてるみたま神社の鳥居前に出る。現在の祭神は天之御中主神あめのみなかぬしのかみとほか4神(大国魂神おおくにたまのかみ穂々出見命ほほでみのみこと鵜茅葺不合命うがやふきあえずのみこと瓊瓊杵尊ににぎのみこと)。社名の「木嶋」は社地一帯の古地名で、そのため「木嶋社」を通称とする。現在は宅地に囲まれているが、かつては木嶋という名にふさわしく、周囲には巨樹が繁茂し、境内にある「元糺もとただす」と呼ばれる池の水量も非常に豊かだったという。境内社に養蚕こかい神社があるため、「かいこやしろ」という通称もある。

木嶋坐天照御魂神社
境内は広隆寺の東に位置する

 創祀年代は不詳だが、史料上の初出は『続日本紀しょくにほんぎ』大宝元年(701)4月3日条である。「木嶋神の神稲をこれ以後、中臣なかとみ氏に給する」というのがその内容である。元糺の池には四季を問わず豊かな水が湧き出たためか、平安時代には祈雨の神としてとくに信仰された。

 そして、史料上の裏付けはないものの、太秦という土地柄から、木嶋社はかなり古くから秦氏によって祀られていたのではないか、太秦の秦氏の氏神ではないのか、といったことがよく言われてきた。境内社の養蚕神社が秦氏の職掌である養蚕・織物の祖神を祀っていることも、秦氏との深い関わりを想像させる。

本来の祭神は素朴な太陽神アマテルか

 この木嶋社には、2つの大きな「謎」がある。ひとつ目は、社名に含まれる「天照御魂あまてるみたま」をめぐる謎である。

 神社の世界では、「天照」と書けばアマテラスと読まれるのが普通で、要するに伊勢神宮に祀られる太陽神で天皇家の祖神である天照大神あまてらすおおみかみのことをさす。しかし、木嶋社ではこれをあえてアマテルと読ませていて、天照大神とは別の神格を祀っていることをにおわせている。

 じつは、畿内には、木嶋社以外にも、社名に「天照=アマテル」という言葉を含む式内社しきないしゃが点在している。丹波たんば天照玉命あまてるたまのみこと神社(京都府福知山市今安いまやす)、大和の鏡作坐天照御魂かがみつくりにますあまてるみたま神社(奈良県磯城しき田原本町たわらもとちょう八尾やお)、他田坐天照御魂おさだにますあまてるみたま神社(奈良県桜井市太田)、摂津せっつ新屋坐天照御魂にいやにますあまてるみたま神社(大阪府茨木市西福井)などがそれである。

 これらの神社の本来の祭神をめぐってはいろいろと議論があるが、アマテル=太陽の神格化、すなわち古代日本人が素朴に信仰していた太陽神としてのアマテルが祀られていたのではないかという説が注目される。つまり、アマテルとは、皇祖神アマテラスが形成される以前に日本各地で信仰されていた太陽神であり、プレ・アマテラスとでも言うべき神ではないか、という見方だ。

 ここで木嶋社に話を戻すと、現在の祭神は先に記したように、天之御中主神ほか合わせて5神だが、歴史的にみると祭神名は必ずしも一貫していない。大正14年(1925)刊行の『特選神名牒じんみょうちょう』は祭神を天照国照天火明命あまてるくにてるあまのほのあかりのみこととし、享保18年(1733)完成の出口でぐち延経のぶつね『神名帳考証』は「天日神命あまのひのかみのみことか」としている。いずれも、アマテルの系譜につながるローカルな太陽神である。こうしたことからすれば、木嶋社の本来の祭神は、その社名に含まれる「天照御魂」、すなわち素朴な太陽神としてのアマテルであったと考えるのが適当ではないだろうか。

 そして、木嶋社が秦氏の氏神であったというのなら、そのアマテルは渡来人秦氏が奉じてきた太陽神であり、渡来系の信仰に由来する独特の神格を有していたと考えることができよう。

元糺の池に立つ三柱鳥居の謎

 2つめの「謎」は、境内の元糺の池には、全国的にもきわめて珍しい三柱みはしら鳥居が立っていることである。これは鳥居を3つ組み合わせたもので、真上から見ると、正三角形が中心の組石を囲む形体をしている。

三柱鳥居
本殿の西側に広がる「元糾の池」の中に立つ。
現在は、行事がある時に池に水がはられる

 いつからここに三柱鳥居が立っていたのかは不明なのだが、現在のものは江戸時代の享保年間(1716~1736年)に修復されたものだというので、それ以前から存在していたことになる。

太秦に鎮座する木嶋坐天照御魂神社(江戸後期) 
中央の池の中には珍しい「三柱鳥居」が描かれている
(『都名所図会』)

 なぜこんな不思議な鳥居が建てられたのか。創立年代同様このこともよくわかっておらず、そのため諸説が唱えられているが、ここでは古代史研究家の大和岩雄おおわいわお氏が主張した有名な説を要約するかたちで紹介しておきたい。

「三柱鳥居によって構成される三角形のうち、底辺の中央と上方の頂点を結ぶ垂線の延長線上には双ヶ丘ならびがおかがそびえている。双ヶ丘は秦氏の有力者が葬られている古墳(双ヶ丘古墳群)があるところであり、秦氏の祖霊が眠る聖地である。

三柱鳥居と山の方位関係図
『秦氏の研究』より

 次に、三角形の右辺中央と左端の頂点を結ぶ垂線は、東側が比叡山系の主峰四明岳しめいだけを、西側が松尾山を指し示している。三角形の中心(三柱鳥居の中心にある組石)から見ると、夏至の朝日は四明岳の方角から昇り、冬至の夕日は松尾山の方角に落ちる。松尾山は秦氏が祀る松尾大社の神体山である。

 三角形の左辺中央と右端の頂点を結ぶ垂線は、東側が稲荷山を、西側が愛宕あたご山を指し示している。三角形の中心から見ると、冬至の朝日は稲荷山の方角から昇り、夏至の夕日は愛宕山の方角に落ちる。稲荷山は秦氏が祀る伏見稲荷大社の神体山である。

 つまり、三柱鳥居は冬至・夏至の朝日・夕日を遙拝するための鳥居である。しかも、三柱鳥居が形成するトライアングルの頂点はそれぞれ、双ヶ丘・稲荷山・松尾山という秦氏の聖地を指し示している」(『秦氏の研究』『日本の神々 第五巻 山城 近江』)

 この説が正しければ、ハレの日に太陽(=アマテル)を崇めるために、自族の聖地の結節点に秦氏が創建したのが、木嶋天照御魂神社である、ということになろう。

 また、下鴨神社の社叢を「糺の森」と呼ぶが、「糺」の名は、木嶋社の元糺の池を移したもので、そのため「元糺」と言うのだという伝承がある。この池は禊(みそぎ)の行場であったところで、「タダス」という名は禊によって心身を正しくすることに由来することになるらしい。真偽不詳の伝承だが、松尾大社の縁起の場合と同様に、秦氏と賀茂氏の結びつきが示唆されているところが興味をひく。

 木嶋社の三柱鳥居をめぐっては、これを景教けいきょう(キリスト教ネストリウス派)の遺物であると断じた、明治時代に唱えられた有名な学説もある。秦氏の里太秦の地に残る社寺には、解きがたい謎が多いようである。

──本記事で紹介した京都の古社については、『京都古社に隠された歴史の謎』(古川順弘著、ウェッジ刊、2024年6月20日発売)の中で詳しく触れています。ただいま全国主要書店、ネット書店で好評発売中です。

<本書の目次>
第1章 京都の地主神をめぐる
 宇治上神社、貴船神社、石座神社 他
第2章 賀茂神の軌跡をたどる
 岡田鴨神社、久我神社、賀茂御祖神社 他
第3章 古都を育んだ渡来人の信仰
 松尾大社、大酒神社、八坂神社 他
第4章 神話・伝説の舞台を訪ねる
 葛野坐月読神社、籠神社、浦嶋神社 他

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