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俳人・高浜虚子と時雨の大原寂光院|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、その魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第10回は、俳人・高浜虚子の紀行「時雨しぐれをたづねて」を取り上げます。かつて源平の争乱で生き残った建礼門院徳子ゆかりの寺として知られる洛北・大原の寂光院じゃっこういん。新緑の今も風情がありますが、虚子は東京にいる頃から「明るい光景の時雨にあいたい」と心に念じ、しばしば大原を訪れました。

 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は源平合戦が前半の主題です。源頼朝の蜂起ほうきから平家滅亡までの源平の争乱。この大激動の時代を描いた古典文学の傑作といえば「平家物語」。この物語では多くの悲劇が語られますが、その最大のヒロインは建礼門院徳子でしょう。

 建礼門院は平清盛の娘として生まれ、高倉天皇(後白河天皇の子)のきさきとなって安徳天皇を産みます。しかし、壇ノ浦で安徳天皇はじめ平家に連なる人々がほとんど命を落とすなか、奇跡的に生き残った彼女は出家し、1185(文治元)年9月、京都の洛北・大原に隠棲します。その閑居かんきょした寺が大原寂光院です。

 今から90年以上前のある日、大原の里を高浜虚子が訪れました。虚子は明治、大正から昭和にかけて、雑誌「ホトトギス」を中心に「客観写生」「ちょうふうえい」の理念を強く主張した代表的な俳人です。

 高浜虚子 写真提供:虚子記念文学館

 愛媛県松山市出身の虚子ですが若き日に京都の第三高等学校で学んでいたこともあり、京都がことのほか好きだったようです。毎年のごとく京都を訪れており、この時は三人の同行者と一緒に「時雨の風景を眺めたい」と、大原まで足を延ばしていました。1928(昭和3)年1月に発表した写生文「時雨をたづねて」の冒頭近くに、虚子はこう記します。

「京都の時雨に逢いたい」とにわかに思い立った私は万事を放擲ほうてきして京都に来ることになった。

 嵯峨野さがのをめぐった後に大原を訪れた一行は、ここで待望の時雨に出会います。降り出した時雨の中、田舎道をめぐっていた彼らはやがて寂光院の門前にたどり着きました。

四人は時雨の降る下にたたずみながら、今や寂光院の石段を通してその山門を見上げていた。そうして一歩をその石段の上にかけた。石の間に挟まっている落葉――主として散紅葉――は時雨に濡れていた。その落葉の外に塵やあくたは認められなかった。四人はこの清浄な石段を上るにつけてまた時雨の空を仰いだ。

寂光院の参道

山門を入るとそこに『みぎわの桜』『岸の山吹』などの立札が池のほとりに立っていた。その桜というのは非常な古木の、ほとんど朽ち果てて倒れるようになっているのが、わずかに柱に支えられていた。『岸の山吹』とあるあたりにも枯れ朽ちた山吹らしいものが見えた。

汀の池

紅葉はいちめんに散り敷いて、わずかに梢に紅いものを止めているのもあった。また一二本の遅紅葉の松の木の間にあるのも認められた。しばらくその境内にたたずんだ後、案内を乞うた 。

 寂光院の周辺は令和の今日でもやや寂しい風情があります。虚子が訪れた昭和初期はもっと静かな山里の雰囲気だったのでしょう。まして830年以上も前、建礼門院が隠棲した時代の寂光院がどんなたたずまいだったのか。想像すらできません。

 一人の尼は姿を現わした。時雨をよけてひさしの下にたたずんでいる者もあった。尼は一行の四人を見て、

「拝観ですか」と言った。

「そうでございます。拝観したいものです」と一人は答えた。

 寂光院は天台宗の尼寺です。594(推古2)年に聖徳太子が父・用明天皇のだいを弔うために建立されたと伝えられています。

寂光院本堂

尼は枝折門しおりもんの上にかかっている円い竹で編んだようなものを外して、「こちらへ」と導いた。四人は靴や下駄を脱ぎ捨てて草履に履きかえた。そして瓦廊下の上を通って本堂の方へ行った。

尼が先に立って本堂に上った。四人はその後に従った。尼は本尊の前にひざまずいて、

「この御本尊の薬師如来*は聖徳太子の御作」と説明をした。本尊は慈眼じげんに垂れてその前につくばうている四人を見下ろしておられた。

 実は寂光院は2000年に火災に遭い、本堂も本尊も焼失してしまいました。焼失前の本尊は鎌倉時代の作(聖徳太子の作ではないようです)、本堂の内陣および柱は飛鳥・藤原様式および平家物語当時の様式を残したものでした。虚子が見たのは当然、この焼失前の姿です。

*「時雨をたづねて」の原文に「御本尊の薬師如来は聖徳太子の御作」とありますが、寂光院によると「(焼失前の御本尊も)地蔵菩薩であり、鎌倉時代の作」とのこと 

尼は立って本尊のうしろに行った。そうして一個のろうそくを灯して、ある御扉の内を照らした。そこにはおつむりを白絹で包ませ給うた建礼門院の御姿が照らし出された。

壇の浦の荒浪に一度沈ませ給うたのが源氏の兵に救われて、この山里の寺に味気ない月日を送らせ給うた御姿と哀れに伏し拝んだ。それはお能の舞台で見る大原おおはら御幸ごこうのシテの面影と変りない御姿に拝まれた。

 建礼門院像も残念ながら焼失しました。現在、寂光院で見られる本堂、本尊、建礼門院像などはすべて復元されたものなのです。

焼失する前の建礼門院像写真(筆者提供)

 出家して尼姿になった建礼門院は、侍女として使える阿波あわ内侍ないし、大納言のつぼねらとともに、この寂光院で亡き子(安徳天皇)や平家一門の菩提を弔う念仏三昧の生活を送ります。

 ところが、隠棲して世を捨てた暮らしに入った建礼門院を後白河法皇がお忍びで訪問。人の世の転変の悲しみについて語り合うのです。これが「平家物語」のラストを飾る大原御幸の物語で、能だけでなく、小説や舞台、映画、絵画などにいくたびも取り上げられています(御幸が実話かどうかは真偽不明)。

 虚子は建礼門院に思いをめぐらせた後、庭園で見た気になるものについて尼に尋ねます。

汀の池と本堂

「さっき池のほとりのお庭を拝見している時分に、阿波の内侍や大納言の局などの石塔のことが石に彫ってあるのを見ましたが、どこにあるのですか」

「それはあそこの小さい裏門を出まして、だらだらと坂を下りまして、谷を下ってから向うの急な坂を少し上ったところにあるのでございます」

「そうでございますか。一つ行って見ましょう」

そこで四人は立上った。外套を着、帽子を被り靴や下駄をはいた。尼も庭に下り立った。

時雨の降っておる表に四人は出た。尼も時雨に濡れながら先に立った。裏門を出でしばらく行くと『建礼門院庵室あんしつあと』という石の柱が建っていた。その回りは広く柵でとり囲まれていた。

尼はその前に立って、

「これが建礼門院御庵室の跡でございます。ここも秀頼公が御再建になろうとしたのに、大坂陣が起こったために御止めになったのだそうでございます。この前に生えているのは大原菊と申しまして、嫁菜よめなの花のような花が咲くのでございます」と言った。

その大原菊という名もなつかしい名であった。花は今無かったが葉もやさしい葉であった。

「平家物語」では庵室の様子を「軒にはつた槿あさがおしのまじりのわすれくさ」「後ろは山、前は野辺」「来る人まれなる所」と記しています。建礼門院はこの地で終生を過ごし、寂光院の東の高台にある大原西陵に葬られたと伝えられています。

建礼門院御庵室の跡地

尼はそれからまた先に立って行こうとした。私たちは、

「もうここまででよろしうございます」と辞退した。

そうすると尼は行く手を指して、

「その坂を降りてすぐ向うの坂をのぼると四つお墓が並んでおります。その一番高いのが阿波の内侍、それから次に大きいのが大納言の局、あとの二つは何誰どなたのですかお名前はわかっておりません」と言った。

私たちは尼にわかれて教えられる通りの道をとった。尼はなおそこにたたずんで私たちの行く手を見ておったが、ようやくきびすを返してもとの路を戻った。両袖をかき合せて時雨の中を帰って行く姿がしょんぼりと見えた。

私たちは教えられた通りに急な坂を上った。十間ばかり登ると松の木の下に四つの苔蒸した小さい墓が並んでいた。一番高いと言われる阿波の内侍の墓ですらもが非常に小さいものであった。懐かしい四つの墓を四人は飽かず眺めた。

この訪問の後も、虚子はしばしば晩秋から冬にかけての時雨の時季に大原を訪ねています。時雨の大原が本当に気に入っていたのでしょう。1947(昭和22)年にはこんな句を残しています。

大原は昔も今も時雨かな 虚子

出典:高浜虚子『二三片』「時雨をたづねて」

文:藤岡比左志
写真提供:寂光院

寂光院
京都府京都市左京区大原草生町676
拝観時間:午前9時~午後5時(3月1日~11月30日)
☎075-744-3341
https://www.jakkoin.jp/

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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