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「役者は一生の仕事と決めて迷いはありませんでした」風間杜夫(俳優)|わたしの20代

わたしの20代は各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺う連載です。(ひととき2024年1月号より)

 僕は子役も経験していますが、中学で一度やめているので、自分では俳優としての出発地点は20代だと思っています。

 高校時代に舞台を観るようになった僕は早稲田大学の演劇サークル「自由舞台」に憧れ、一浪して夢をかなえました。ところが、当時は学園紛争のピークで、先輩たちも芝居よりデモ。もともと僕は内向するタイプで、演劇の世界に入ったのも、虚構の世界なら自由になれると思ったから。それが革命を声高に叫ぶ人たちを見ているうちに、ますます自信をもって言える言葉がなくなっちゃってね。語り合いたくもない。でも芝居をしているときは解放されました。人の書いたセリフなら人前でも大声で言えたから。

 結局、翌年「自由舞台」は解散。大学に行ったところで講義もろくになく、1、2年はバイトに行くか、大学近くの雀荘じゃんそうやジャズ喫茶に入り浸る日々でした。その後、そろそろ何かやらないと、と思って俳優養成所に入りましたが、方針が気に入らなくて辞め、後にコントユニット「シティボーイズ」を結成する大竹まことや斉木しげる、きたろうたちと立ち上げたのが演劇集団「表現劇場」。これが僕の中での俳優人生のスタートです。

演劇仲間と「表現劇場」を立ち上げた22歳の頃

 日活ロマンポルノに出演したのもその頃。ギャラがよかったんですよ。1本目は脱がない役で5万円だったけど、脱げば20万円。だから2作目からは素っ裸で走り回ったりしてました(笑)。僕自身はポルノに偏見はなかったけど、これで、少なくともNHK出演はもう無理かなと思いましたね。ところがその後、大河ドラマ「勝海舟」への出演依頼があったんです。聞けばディレクターがロマンポルノのファンだったらしい。当時はポルノに路線変更した日活から大監督たちが去ったことで、神代くましろ辰巳たつみ、田中登、藤田敏八としやなど若手が監督になって大喜びで作品をつくっていたから現場に熱があったし、作品も面白かったんです。

 僕の転機はやはり劇作家・つかこうへいに見いだされたことでしょうね。劇団というのは突出した作家や演出家がいないと成り立たない。「表現劇場」は俳優の集団だったので結局3年ももたなかった。そんなとき出会ったのがつかさんでした。彼の芝居には台本がありません。口立てといって、稽古場でつかさんが口にした言葉がセリフとなり、芝居ができていく。つかさんはよく怒ったし、「お前らが芝居できないのはゴールデン街なんかで飲んでるからだ!」なんて理不尽なことも言う。それでも劇団員は皆「つかさん、かっこいい!」と思っていました。その愛憎の共存ぶりはまさに「蒲田行進曲*」の銀ちゃんとヤスです(笑)。

*スターと大部屋俳優の愛憎入り交じる友情を描いた、つかこうへい作・演出の戯曲。1980年に初演され、82年に映画化された

 僕の名が世に知られるようになったのは、30歳を過ぎて映画「蒲田行進曲」などに出演した頃から。でも、それまでも将来への不安はありませんでした。毎日が面白くて「来年はもっと楽しいことがあるはず」って、はしゃいでいたな。25歳で結婚したときこそ、これで食っていけるのかという思いが頭をよぎったけど、役者は一生の仕事と決めていたから、続けてりゃ誰かの目に留まるだろう、なんて気楽に考えていました。

 僕は自分の芝居で誰かに影響を与えようとたくらんだことは一度もないんです。お声がかかるのを待つだけ。それは20代も今も、これからも変わらないですね。

出演舞台「大誘拐〜四人で大スペクタクル〜」が2/6(火)から3/10(日)まで、全国13カ所で上演予定

談話校正=佐藤淳子

風間杜夫(かざま・もりお)
1949年、東京都生まれ。8歳の頃から子役として活動。早稲田大学在学中の72年、演劇集団「表現劇場」を旗揚げする。77年よりつかこうへい作品の主軸俳優として多くの舞台に出演。82年、映画「蒲田行進曲」が大ヒットして脚光を浴び、83年のテレビドラマ「スチュワーデス物語」の教官役で人気に。以来、舞台、映像作品など幅広いジャンルで活躍を続け、近年は落語にも取り組んでいる。日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、菊田一夫演劇大賞など受賞多数。

出典:ひととき2024年1月号

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