「役者は一生の仕事と決めて迷いはありませんでした」風間杜夫(俳優)|わたしの20代
僕は子役も経験していますが、中学で一度やめているので、自分では俳優としての出発地点は20代だと思っています。
高校時代に舞台を観るようになった僕は早稲田大学の演劇サークル「自由舞台」に憧れ、一浪して夢をかなえました。ところが、当時は学園紛争のピークで、先輩たちも芝居よりデモ。もともと僕は内向するタイプで、演劇の世界に入ったのも、虚構の世界なら自由になれると思ったから。それが革命を声高に叫ぶ人たちを見ているうちに、ますます自信をもって言える言葉がなくなっちゃってね。語り合いたくもない。でも芝居をしているときは解放されました。人の書いたセリフなら人前でも大声で言えたから。
結局、翌年「自由舞台」は解散。大学に行ったところで講義もろくになく、1、2年はバイトに行くか、大学近くの雀荘やジャズ喫茶に入り浸る日々でした。その後、そろそろ何かやらないと、と思って俳優養成所に入りましたが、方針が気に入らなくて辞め、後にコントユニット「シティボーイズ」を結成する大竹まことや斉木しげる、きたろうたちと立ち上げたのが演劇集団「表現劇場」。これが僕の中での俳優人生のスタートです。
日活ロマンポルノに出演したのもその頃。ギャラがよかったんですよ。1本目は脱がない役で5万円だったけど、脱げば20万円。だから2作目からは素っ裸で走り回ったりしてました(笑)。僕自身はポルノに偏見はなかったけど、これで、少なくともNHK出演はもう無理かなと思いましたね。ところがその後、大河ドラマ「勝海舟」への出演依頼があったんです。聞けばディレクターがロマンポルノのファンだったらしい。当時はポルノに路線変更した日活から大監督たちが去ったことで、神代辰巳、田中登、藤田敏八など若手が監督になって大喜びで作品をつくっていたから現場に熱があったし、作品も面白かったんです。
僕の転機はやはり劇作家・つかこうへいに見いだされたことでしょうね。劇団というのは突出した作家や演出家がいないと成り立たない。「表現劇場」は俳優の集団だったので結局3年ももたなかった。そんなとき出会ったのがつかさんでした。彼の芝居には台本がありません。口立てといって、稽古場でつかさんが口にした言葉がセリフとなり、芝居ができていく。つかさんはよく怒ったし、「お前らが芝居できないのはゴールデン街なんかで飲んでるからだ!」なんて理不尽なことも言う。それでも劇団員は皆「つかさん、かっこいい!」と思っていました。その愛憎の共存ぶりはまさに「蒲田行進曲*」の銀ちゃんとヤスです(笑)。
僕の名が世に知られるようになったのは、30歳を過ぎて映画「蒲田行進曲」などに出演した頃から。でも、それまでも将来への不安はありませんでした。毎日が面白くて「来年はもっと楽しいことがあるはず」って、はしゃいでいたな。25歳で結婚したときこそ、これで食っていけるのかという思いが頭をよぎったけど、役者は一生の仕事と決めていたから、続けてりゃ誰かの目に留まるだろう、なんて気楽に考えていました。
僕は自分の芝居で誰かに影響を与えようとたくらんだことは一度もないんです。お声がかかるのを待つだけ。それは20代も今も、これからも変わらないですね。
談話校正=佐藤淳子
出典:ひととき2024年1月号
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