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台北建築歴史探訪──日本が遺した建築遺産を歩く

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台湾在住作家である片倉佳史氏が、台北市内に残る日本統治時代の建築物を20年ほどかけて取材・撮影してきた渾身作『台北・歴史建築探訪』。このほど発刊される増補版では、コロナ禍でリノベ…
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#旅行・おでかけ

【不只是圖書館】工場内の浴場を再整備した私設図書館|『増補版 台北・歴史建築探訪』より(11)

 専売局松山工場は市内最大規模を誇る産業施設だっただけに、工員の生活を支える様々な施設があった。浴場もその1つである。ここは元女性用浴場であり、詳細は不明なものの、築80年を超える建物であることは確かだ。工場としての機能が移転した後は、長らく倉庫となっていて、全体が荒れるに任された状態だった。  ここを整備したのは気鋭のデザイナー・邱柏文氏だった。邱氏が率いる「柏成設計」がデザインを担い、修復が進められた。その際、設計概念となったのは「本があふれるお風呂。そして、そこ浸かれ

【AKA café】洋館の雰囲気の中で楽しむくつろぎの時間|『増補版 台北・歴史建築探訪』より(9)

 ここ数年、大稲埕地区では老家屋を再生させたカフェやショップが次々と誕生している。「AKA café」は予約制のカフェで、民樂街から路地を入った先にある。喧騒とは無縁の場所で、ここが台湾であることを忘れてしまう。  家屋は和洋中の折衷様式と言うべきもの。赤煉瓦の壁や老タイルが敷き詰められた床を差し込んだ日差しが優しく照らす。中庭には緑が生い茂り、小鳥のさえずりが聞こえてくる。  ここに暮らしていたのは郭烏隆。地元の名士で、海産物や雑穀、小麦粉、砂糖などを扱う卸問屋「郭怡美

【OrigInn Space】歴史建築の味わいに浸れる個性派プチホテル|『増補版 台北・歴史建築探訪』より(8)

 大稲埕は茶葉や米、布地などの交易で栄え、今でもバロック風の装飾を正面上部に据えた商館建築が多く並んでいる。ここはその入口に当たる場所にあり、南京西路と迪化街の交差点に近い。6棟が連なっている大型建築で、地元では長らく「六館街」と呼ばれていたという。  外壁はすっきりしているが、さりげなく装飾が施されており、アクセントとなっている。竣工は1931(昭和6)年。所有者は台湾北部の大富豪であり、名家の誉れ高い林本源。現在は一部がリノベーション空間となっており、ショップやレストラ

【行政院 旧台北市役所】竣工から5年足らずで敗戦を迎えた市役所の新庁舎|『増補版 台北・歴史建築探訪』より(7)

 ここは日本統治時代の台北市役所である。竣工は1940(昭和15)年で、翌年から使用されている。つまり、竣工からわずか5年足らずで終戦を迎え、中華民国・国民党政府に接収された官庁建築である。  日本人が台湾を去った後、ここは中華民国台湾省行政長官公署となり、その後は行政院が使用するようになった。行政庁舎としての機能に変化はないが、現在、この建物がかつて台北市役所だったことを知る人は多くない。  建物は装飾を排したデザインである。建坪数は1122坪で、広い前庭を擁している。

【國立臺灣文學館臺灣文學基地】和洋折衷の木造家屋が並ぶ歴史景観エリア|『増補版 台北・歴史建築探訪』より(5) 

 幸町と呼ばれた界隈には、閑静な住宅街が広がっていた。高級官吏用の住宅をはじめ、区画整理された土地の上に公務員用の住宅や企業家の邸宅などが並び、台北でも指折りの住環境を誇っていた。同時に教育機関も多く、文教エリアでもあった。  こういった家屋は戦後に中華民国に接収され、政府関係者に当てがわれたが、環境の良さは保たれていった。民主化が進められる中、こういったものを公共財産として扱い、有効に活用していく試みが2000年頃から盛んになった。ここも日本式の木造家屋が続々と再整備され

【市長官邸藝文沙龍】樹木に覆われた高級官舎が文芸サロンに|『増補版 台北・歴史建築探訪』より(4)

 喧噪の大都会の海に浮かんだ小さなオアシス。ここはそんな表現が似合いそうな場所である。旧台北高等商業学校の向かいに位置する木造家屋で、かつての台北州知事公邸だった建物である。  敷地面積800坪というこの建物は、当時の高級官舎によく見られた和洋折衷のスタイル。全体の雰囲気は日本風で、畳敷きの部屋はあるものの、基本的な間取りは洋風となっていた。家具などについてもすべて舶来物で統一されていたと言われる。建物の性格上、当時、館内の様子を目にした人は多くないが、贅のかぎりを尽くして

【大院子】ガジュマルの老樹が生い茂る歴史再生空間|『増補版 台北・歴史建築探訪』より(3)

 台北帝国大学の教職員住宅が集まっていた旧昭和町は、家屋や樹木の保存運動が盛んなエリアである。地域住民のみならず、この界隈で生まれ育った湾生(台湾からの引揚者)たちも日本で「昭和町会」を組織しており、多くの記録と証言を残している。  ここは台北帝大が設けたクラブであり、「単身官舎クラブ」とも呼ばれていたようである。ただし、詳細は長らく謎で、戦時期は海軍が所有する士官招待所にもなっていた。そして、終戦直後の時期は引揚を待つ在留邦人子弟のための日僑学校として使用されたこともあっ

【新富町文化市場】公共空間として生まれ変わった公設市場|『増補版 台北・歴史建築探訪』より(2)

 下町情緒が色濃く漂う一角にある市場建築。萬華駅に近い住宅街にあった公設市場である。  市場の名は日本統治時代の町名が受け継がれていた。つまり、「新富町」という町名は戦後、中華民国政府によって廃せられたが、市場については戦前の呼称が今も使われ続けているのである。  市場は1921(大正10)年7月に開設された。建物は1935(昭和10)年1月7日に起工し、6月28日に竣工したという記録が残る。鉄筋コンクリート構造の堅固な建物で、装飾を排したデザインとなっている。俯瞰すると