見出し画像

仏教文化ってなに?③:人の求めるもの

人間としての成長を求める声にこたえる“マインドフルネス”に対して

日本の仏教はどのような要望にこたえるためのものだったのでしょうか。

二つとも“よりよい人生”を送るために人が求めたものであったはずですが。

現代では“よりよい人生”の目指し方が変わってきているということですね。

※仏教のアレに投稿された記事です

前回はこちら!

仏教文化ってなに?②:日本の“仏教”


新生活に向けたスキルアップ!坐禅!

道宣
それでは、マインドフルネス逆輸入後の
日本仏教の行くすえについてです。

遊心
はい。
まず、そもそもの話、アメリカでの仏教文化は

“人間的成長”を目指す人に魅力的な形で

マインドフルネスを紹介することによって

巨大な文化となったわけです。

道宣
はい。
より効率的な働き方、より幸せな生き方を

模索する人々の間で人気が出たんですね。

日本で言う“お習い事”くらいの感覚で流行っていると思います。

遊心
お習い事って言うのは近いですね!
たしかに日本でも

茶道や華道や武道が“お習い事”として一般的ですが

アメリカでは、それと同じような形で

坐禅が“お習い事”になったようなものですね。

道宣
そうなりますね。

日本では、人間を成長させるために修行することが

長らくいましめられていましたから

日本人に置き換えるとあんまり考えにくい現象ですが。

遊心
むしろアメリカの人からしたら、

「成長しないのに、なんでやってるの?」

って話になるんでしょうね。

あくまで“仏”が理想の仏教文化

道宣
それはひとえに、日本仏教の修行が

“仏を目指すためのもの”

であり続けたからこそ、そうなっているのですが…。

たしかに人間がいくら成長して能力を高めても

仏に近づくかどうかと直接関係があるとは言えません。

が、逆に言うと、仏を目指す修行が

人間的な成長と無関係かというとそれも違います。

遊心
まさにアメリカで彼らがこぞって研究するような

「身心への良い影響」
というものは

我々の経験においても

修行の途上ではたしかに

起こりうるものですからね。

ただしかし、

あえてそこを引っ張り出して売り出すことは

伝統仏教国にはできない芸当です。

道宣
はい。

“努力によって結果を買う”という形では

修行は成り立たないので、

指導者はこういわざるを得ません。

「修行の目的は人間的成長(能力)ではない」と。

遊心
そういわれてしまったら

仏教の実践は“お坊さん”にしかできないです。

だから私達はお坊さんになったわけですけど……。

その“人間的成長を求めてはいけない”という言葉を

お坊さんでない人々にまであたりまえにするのは

もはや考え物ですね。

文化は一般人のためのもの

道宣
文化の存在するための価値とは、

その地域の人間にどれだけ利益を及ぼすか、

ですから、あえて“仏を目指すことのない”実践者

いてもいいはずです。

つまり、人間として人間の利益を得ようとする

素朴な志向をもって仏教文化に触れる人間

ゆるされるべきだと思うのです。

言ってて思いましたが、これ

なんだか

あたりまえの話

なんですよね。

遊心
そうですね(笑)

アメリカのマインドフルネスだろうが

日本のお葬式や法話だろうが

人に何かしらの利益をもたらしているから

“文化”として存在します。

どのような利益をもたらしているのかと言えば

「仏教」に触れた人間が

“よりよい人生を送るため”に

有益な情報や体験を提供している。と言えます。

道宣
そうですね。

その観点で言えば、日本の“死生観の提供”も

マインドフルネスの“自己修養”と

同じ位の利益をもたらしているはず

と言うことが出来ることになります。

遊心
つまり、それだけ重要な価値が“日本仏教”に

存在する。少なくとも今までは存在した。

ということですが、なぜこうもアメリカと差がついたのでしょう。

かたや、雑誌やニュースで引っ張りだこの

トレンドカルチャー

かたや、雑誌やニュースで批判の矢面に立つ

抹香臭い文化

ですからね……。

道宣
……。

それはやはり日本仏教の僧侶であるわれわれの

大きな責任問題でもあります。

しかし、文化的視点に立てば、

単純に提供側の問題のみでもないという点も重要です。

100年前の必需品、現代では……

遊心
つまり、消費者側の問題ですか?

道宣
問題というと、ちょっと語弊がありますが…

消費の仕方が、もはや全く別物である。

ということです。

遊心
そりゃぁ、仏式の葬儀が一般的になってから

四百年近くたっているでしょうから、

仏教がどのように消費されているか、なんて

現代においては全く違ってもおかしくないですね。

道宣
はい。

仏教自体の大きな役割であった

“苦の救済”

一番大きな側面であった時代からくらべると

救済を必要とするほどの“苦”が

圧倒的に少なくなっている、

つまり現代では単純に“苦”が

そこまで意識されることがないんじゃないですかね?

遊心
たしかに……

日常的に

飢えたり

病気に苦しんだり

死と隣り合わせ

という状況は考えにくいですね。

道宣
この“苦しみの救済”が重要な役割であることは

間違いがないのですが、

現代における役割はまた違う側面にも

大きく表れてくるのではないか?というのが

私の考えです。

遊心
面白そうですね!

では次回はそのお話をしましょう!

まとめ


・その国が仏教文化に求めているものはそれぞれ違う。
・文化を作る国民も百年単位で見れば大きく違う。
・文化は遅かれ早かれ必要とされる形になってゆく。

スキされると鼻いきあらくして記事書きます。