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205 小説と占いと受け取ること

占いから得られるもの

 占いに興味を持ったのは、高木彬光の小説にはまっていた頃だから、かなり昔の話である。高木彬光原作の映画『白昼の死角』の公開は1979年。もっとも有名なのは恐らく探偵・神津恭介のシリーズだろうが、この映画はそうではなく、経済犯罪ものだった。青森市生まれの高木彬光は、手相をはじめとした占いに詳しく、また株取引などにも詳しい作家だった。そのためか、学生だった私は易経の本と株式投資の本をどちらも古書店で購入して熟読したのであった。もっとも、どちらもさっぱりわからなかった。
 そんなときに、世の中はスピリチュアルなブームがあって、テレビには宜保愛子や細木数子が出て、さまざまな怪しい世界を見せてくれていた。私はごくまともにタロットの本を読み、さらにルーンの本も読んだ。社会人になってからルーンの付録がついた本を購入して、何年かもの凄く熱心に占っていたこともあった。
 いまは、ネットで「しいたけ占い」などを見つけては読んでいるし、dマガジンで読んでいる雑誌に占いコーナーがあれば必ず見る。
 とはいえ、読んでもすぐ忘れてしまうのである。読んでいる間だけ、いろいろなことを考えるけれど、あとは忘れてしまうから「今週って、どんな占い結果だったのか」と思い出すことすらしない。ラッキデーなどの指定があったとしても、まったく気にしていない。
 つまり、占いをそういう意味で信じているわけではないのである。
 しかし、間違いなく、占いから私は多くのものを得ている。それは、小説を読んで得られるものと、ほぼ同じである。言葉(文字)から自分が受け取るものは、自分だけしか受け取れない「何か」であって、それは読んでいる間に脳内で形成され、そのうちのいくつかは熟成されて自分自身のものとなっていく。ただ、それに関して、あまり神経質にならないだけのことだ。
 能登半島地震のとき、Xでは、「占いは信じない」といった主張がいくつか見られた。地震などの大災害を占いは当てない。当たるはずがないのだ。つまり「今日はあなたのラッキーな日です」と占いにあったとしても、交通事故に遭ってしまうこともあるわけだ。
 だったら、占いはなんの役に立つのか? それは小説がなんの役に立つのか?という問いとほぼ同じだと私は思っている。小説は、自分のことが書いてあるわけではないし、自分のいま抱えている問題の解決策を提示してくれるものでもない。それでも読んでいる間には、卓球やテニスのラリーさながらに脳内で言葉が飛び交っている。この言葉が、反射したり響きあったり変形しながら自分のものとなって、なにかを形成していくと、私は思っている。

矛盾や違和感を発見する

 そのうちのひとつとして、小説も占いも、私は矛盾や違和感を発見したときに自分のものになっている気がしている。
 正直、自分のことをなにも知らず、生まれ年月日や星座やらでザックリと占われたとしても、そこに出てくる文言はどれも見当外れとなっている可能性も高い。しかし、そこがいいのである。「なんだこれ」と思う。「ぜんぜん、違うよね」と感じる。もちろん「同じだ」とか「そのとおり」と思っても構わない。どっちでもいいけれど、私はどちらかといえば、矛盾や違和感の方が有益な気がしている。
 たとえば、ある週の占いで「すべてがマイペースでうまく運びます」とあって、きわめて順調そうに見えているのに、「仕事運は、周囲からの抵抗にあって簡単には進まないけれど、耐えてください」とあったりする。おいおい、マイペースで行くんじゃないの? 耐えるの? どっち?
 こうした矛盾や違和感は大好物で、それに自分は反応する。世の中は矛盾に満ちている。何事もスッキリとはいかないものだ。だから占いのもたらす言葉も矛盾に満ちていて当然だし、「こんなの自分と関係ない」と違和感をおぼえて当然だろう。
 それは、たぶん、ほかの人から見た自分もそうなのだ。自分には矛盾があり違和感がある。第三者の感じる私は、私の感じる私とは違うのだ。
 小説も同様で、どの登場人物もまったく共感できず、その行動原理がさっぱりわからない場合もある。「共感できる」「わかる」がないと小説を読めないとすれば、ほとんどの小説を読めないだろう。そこには違和感が満載のはずだ。さすがに作者や編集者は矛盾には気づくはずで、そこをきっちりカバーしているとは思うけれど、「なんで?」とこっちは思い続けることはあり得る。
 そこがいいのだ。いま読んでいる三島由紀夫の『美しい星』なんて、違和感てんこ盛りである。第一に時代背景がわかりにくい(戦後間もない頃で、水爆実験が盛んな時代)、さらに「美」についての著者独自の解釈、そしていまではほとんど使われなくなっている語彙も頻出する。それでも、おもしろい。私の中で、そうした言葉たちがラリーを続けていて、それが「快」なのである。
 ここまで書いて、「これじゃ、マッサージみたいだ」と思ったけれど、確かにマッサージ効果は小説にも占いにも同様にある。ただ言葉や文字を介することで、それ以外にもなんらかの効能はあるに違いない。さまざまな食べ物が自分の血肉になるように、さまざまな言葉と矛盾や違和感によるラリーが自分の考えを形成していく。
 たぶん、こうしてnoteに書いているこの文章には、きっとそうして蓄積された「何か」が横溢しているに違いなく、もしそうなら、それは自分自身を形成していると言えるのではないだろうか。

もう少しで完成かな?


 


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