見出し画像

49 分かり合える前提と分かり合えない前提

分かり合えるのか?

 21世紀は分断の歴史となっている。いまのところ。
 融合ではなく、分断。それも、とても細かく分かれていく。少しの差が大きな違いとなってくる。
 みんなが優しく相手を理解し尊重できる社会にしましょう的なことを言ったとする。では、いまの社会にどんな人たちがいるのか、見て見ましょう、となる。十人十色というように、私たちはさまざまな違いを抱えて生きている。いまの時代は、男と女といった2つの性別だけではくくれない。そもそも、くくってはいけない。
 たとえば外見は女だが肉体は男で、性的な対象は女性である人がいる一方、外見は男で中身も男で、性的な対象は男という人もいる。見た目だけではほんの一部しかわからない。
 そして、もしその細かい分類のどこに属しているかを分かったところで、分類としては分かったけれど、「どういう人なのかよくわからない」のままであろう。
 この状況で、相互理解はどうだろう。私たちは分かり合えるのだろうか?
 ウクライナとロシアはいつかお互いに分かり合う日が来るのだろうか? イスラエルとパレスチナはどうか。日本と中国は? 日本と北朝鮮は? 熊と人間は? 関東と関西は? お隣さんとは? 家族の中では?
 親と子、兄弟姉妹、親戚たちと分かり合えるのだろうか? すでに分かり合っているのだろうか。

分かり合えない相手

 私は犬を飼っている。犬と飼い主は分かり合っているのだろうか。そもそも、分かり合えるものなのだろうか。
 恐らく、犬には野性の熊とは違うコミュニケーション能力がある、かもしれない。あるいはそんなものはなくて、熊に比べて犬は「妥協の精神」が強いだけかもしれない。「諦めの精神」かもしれない。
 最初から、諦めていて、妥協できる部分も限りなく広いとき、まったく分かり合えない者同士でも、なんとかく同じ生活圏で生きていくことはできるだろう。「どうせ、分からないんだ」と思っていれば、裏切られることもない。
 たまに、偶然に「こいつ、分かってる」と感じる瞬間に、大きな喜びを感じることがある。
 相手がなにを考えているのかわからないとしても、共存することは不可能ではない。
 不可能ではないというだけで、それがとても「いい状態」とは言えない。それは理想ではない。理想ではないものの現実を生きる道がそこにあるかもしれない。
 孤独感であったり疎外感を抱えながら、「寂しいなあ」と愚痴を言いながらも、トラブルらしいトラブルなしでお互いに生きていくことができ、協力して生産的な行動に結びつけることができたら、大成功ではないだろうか。

キャンプ場で思う

 分かり合えることを前提として生きるだけでは難しいので、分かり合えないことを前提にして生きる方法も身につけた方が良いかもしれない。
 現実に「あいつのことはさっぱり分からないが、いいやつだ」と感じてしまうことはある。どこが「いい」のかは詳しく分析しないと解明できないぐらい、曖昧でふわっとしたつながりなのに、その距離感が最適であったりする。
 ドラマ『すべて忘れてしまうから』のように、常連の人同士でも、なにも分かっていない可能性もある。気に入った店だからといって、そこの店主と相互理解できているとは限らない。
 久しくキャンプはしていないが、いまキャンプはブームという。しかし、たまたまキャンプサイトで同じ夜を過ごすほかのキャンパーたちと、相互理解を図ることは最初から諦めている人が多いだろう。
 隣のテントにどんな人がいるのかも知らないで、よく一晩、寝袋に入って眠れるものだと思う。
 キャンプも格差が大きく、ゴツイ外車のSUVとかで乗り付けて、大量のキャンプグッズを展示場のように広げていく人たちもいれば、使い古されたテントとフライシート、小さなストーブだけで素朴に楽しんでいる人もいる。
 キャンプなのに冷蔵庫もあれば電子レンジもあるぞ、という人がいる一方で、薪に火をつけるだけで2時間かかってしまったぜ、という人もいる。
 キャンプ場に来る人の目的は、そもそもみな違う。「キャンプをしに来た」とくくったとしても、中身はまるで違う。
「一晩だけだからいいか」と最初から、諦めている。
 だとすれば、世の中の大切な要素は「諦め」ではないか。一晩だけなら諦められるのなら、それを二晩に、三晩に、一週間に、一ヵ月に、一年に延ばしていけるだろうか。
「我慢できない」という話になるのなら、分かり合えないままで、どうすれば我慢できるのかを考えた方がいいのではないか。
 もちろん、こんなことを考えても結論が出るわけではないけれど。
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?