93 古本好き
消えていく言葉
古書店へ行くと、必ずといっていいほど、本を買ってしまう。新刊の書店でも、やっぱり行けば買ってしまうので、要するに本好きであるだけではなく古本も好きなのだ。
だからといって、マニアではない。特定のジャンルの本を集めることはしていない。それでも、自然に手元にあるジャンルの本が増えていることはある。
たとえば、江戸時代についての本だ。
そもそもは落語が好きだったので、落語関係で本を買っていると、たとえば『講談落語今昔譚』(関根黙庵著)といった書籍を手元に置いておきたくなってしまう。さらに江戸時代のことも少しは知りたくなるから三谷一馬の『江戸年中行事図聚』とか『江戸商売図絵』なども読みたくなる。
たとえば、『落語家の生活』(内山 惣十郎著)は、昭和46年の本。冒頭に三遊亭円生(六代目)が「書いて貰いたくない事も書いてあるいやな本」との一文があり、肩書きは落語協会・会長である。まさかこの5年後に協会を脱退する大騒動が起こるとはこの頃はまだ思いもよらなかっただろう。
内容はそれほど「書いて貰いたくない事」は見当たらないのであるが、なんといっても驚くのは、「現代の落語」の章で「現代活躍している落語たち」として50人ほどの落語家について簡単に紹介しているのだが、そこには、その人たちの住所と電話番号まで記されているのである。
桂文楽は上野一丁目、古今亭志ん生は西日暮里三丁目、円生の住所は新宿のマンション。柳家小さんは目白二丁目といった具合だ。
この本は主な噺についてもまとめてあって、代表的な噺はシナリオのように詳しく記されてもいる。言い回しが、いまの落語とはかなり違うので、言葉遣いなども興味深い。
「この野郎ハックリ返すぞ」などといった言葉ある。「権助もの」の「木乃伊(みいら)取り」の中のセリフだ。
「道具屋」では、ノコギリのことを「ひっきり」と呼んでいる。
ちなみに「現代もの」では、金語楼の「兵隊さん」を取り上げている。こういう落語はもはや、時代とともに消えたのだ。
伏せ字がわからない
かなり昔に手に入れて好きな本のひとつが『世界怪奇実話』(牧逸馬著)だ。2巻にわかれ、2段組の大著でもある。しかしこれが、また伏せ字だらけでミステリアスといったらない。私の持っているのは昭和44年版。恐らく伏せ字部分は回復不可能だったのだろう。元は昭和四年から八年にかけての連載というので、伏せ字も仕方ないのだろう。
有名な「浴槽の花嫁」の大事な部分では「真気にXめようと掛っているので、急に狼狽して踠き始めた。しかし間もなく、彼女のXXは湯の中に没して、暫くXXを振って悶えていたが、すぐぐったりとなって、そのXXは浴槽一ぱいに拡がるように見えた」といった調子だ。
このXで示したところが伏せ字である。なにが浴槽いっぱいに拡がったのだろう。
といったような本なのだが、これがぜんぜん欠点にはならない。そういう時代があったのだ。
「運命のSOS」はタイタニック号の話であるが、この原稿が書かれたのはこの事故の十九年後とあって、まだまだ生々しい。タイタニックの船会社が事故を少しでも矮小化するために、数少ない生存者同士の誹謗中傷合戦を焚きつけた、といった話もある。
時空を超えた旅を愉しむ
私のこうした古書趣味は、事実であるとか内容、情報を知りたいからではない。はっきり言えば、たとえばタイタニック号の件は、確かにまだいまよりは生々しい頃の執筆だとしても、その後により真実に近い状況が調査・研究されているので、むしろ最新のものを読んだ方がいい。
落語についても、いまではやらない噺を知ったからといって、正直、なんの役にも立たない。
私はそういう研究をしているわけではないのだ。
これは、古書で、時間を飛んで旅をする。そんな行為である。
戦前・戦中の婦人雑誌をいくつか買ったときもそうだった。昭和も戦後になると(私はもちろんその戦後しか知らないのだが)、戦前や戦中についての情報はあまりにも少なく、忌まわしい過去のように語られなくなっていた。だが、戦前・戦中の婦人雑誌には、確かに戦時色がとても濃いのではあるが、それを手にして参考にして防空頭巾を縫った人たちがいただろうな、という実感がある。間違いなく人々は懸命に生きようとしていた。
旅は、観光地を回りご当地の名勝を巡り、写真を撮り、郷土料理を食べたり名産品を食べたりして回ることも多いだろうが、実はそれは「遠くへ行く」ことが根本にあって、距離的、精神的に遠い場所へ行きさえすれば、それはもう旅の醍醐味だと私は思っている。観光地ではなくても旅は成立する。
それと同じで、古書は、時空を超えた旅なのだと思うのだ。別にいまの私にとってなんの役に立たなくたっていい。時間的、精神的に遠いところにある書物をパラパラめくることが、ただ愉しいのである。
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