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326 悪口を言いたい!

口を開けば5割は悪口

 人が発する言語のほぼ5割を悪口が占めている。
 と、まことしやかに仮説にしてみたが、どうだろう。5割は多すぎるんじゃないか、と感じるかもしれない。だけど、湾曲な表現も含めればある種の悪口だったりもする。悪意はなくても、言葉としてはよろしくない表現もある。そういう言葉をお手軽に口にしてしまう性質の人もいて、本人の気付かぬうちに評価は散々なことになっていたりする。
「すてきですね」「お上手じゃないですか」「驚きましたよ」といった言葉さえ、使い方しだいで悪口になる。悪意さえあればたいがいの言葉は悪口として使用できる。
 XのようなSNSの時代。発言機会が多く、なおかつ拡散しやすい。ある意味で地雷と落とし穴の上で生きるには、悪口はとくに重要な課題である。私たちは、悪口を言いたいのだ。最近でもタレントの悪口によっていわゆる炎上騒動が起き、仕事をキャンセルされてしまうような事態にもなっている。しかも、こうした事象は、珍しくない。
 悪口は軽率なのか。あるいはその人のホンネなのか。それとも知識の乏しさなのか。いや、そんな議論をしたところで不毛である。そもそも人間は基本的に誰かの悪口を言っていると気持ちがいいように出来ている。
「へたくそ」「まぬけ」「ばかやろう」ぐらいは、朝から晩まで使える悪口の、比較的お手軽な部類だろう。このほか人の身体的特徴をそのまま言うだけのお手軽で悪質な悪口も多数ある。悪質なのに野放しだ。
 驚くべきは、それは学習によって得られたものではないことだ。
 私たちは「悪口は言ってはいけません」「差別してはダメ」「陰口はやめましょう」「批判するならちゃんとやろう」「言葉をしっかり選んで発言しなさい」といった教育は受けているけれど「悪口を言いなさい」とは教わっていない。
 つまり、生まれると自動的に私たちは悪口製造機になる。これはもはや運命なのである。
 炎上したときには必ずといっていいほど「裏アカでやればいいじゃないか」「仲間うちだけにしておけばよかったのに」との意見が出る。要するに悪口は肯定されている。場所をわきまえればいくらでも言っていい。「王様の耳はロバの耳」だ。
 つまり教養とか性格とかホンネとは直接関係なく、人は放っておけば悪口を言い続ける。それを前提に社会を作り直した方がいいかもしれない。悪口保険があればぜひ検討したい。

傷ついた人たち

 もっとも悪口を非難するのは、悪口によって傷ついた人たちとその人の取り巻きたちである。
 悪口を言われて傷ついた人は「可哀想」だし、周囲の人も一緒に心を痛めるし、ここぞとばかりに「私はあなたの味方」と強調する人も出てくる(これは悪口ではない。冷静に事象として書いている)。だから、悪口を言った人はその時、「敵」になる。敵をなんとかしてやっつけなければならないが、悪口を批判した以上、こちらが悪口で言い返すわけにはいかない。このため、たいがい、話は大きくなる。味方をより多くした方の勝ちだからね。
「みなさん、この人にこんなこと言われた!」と拡散した方がいい。いや、悪口を拡散しちゃダメだよね。え、でもこの拡散はいいのか? それが正義なのか?
 話を大きくしないために、心の傷を癒すためには、むしろ、悪口を言い合うぐらいの方がいいのではないか?
 悪口からはじまって話を大きくし、炎を最大限にしていくことで、「誰も得しない」とよく言われるのだが、実は得をしている人がいる。それをいまここで指摘すると悪口になるから言わないけれど。人間が引き起こす事象に限って、必ず損得は生じる。悪口も同様だ。甘い汁をすすっている人がほら、そこに。
 悪口を言えば損をし、言われた側も損をする。そして誰かが得をする。この構造はITによって生まれたわけではないことは、歴史を学べばわかるだろう。
 なお、それほど悪口を言いたい人は、ぜひ小説を書くことをオススメする。登場人物たちがお互いに罵詈雑言を戦わせても許されるのは、創作空間のみである。そういうバトルはきっとおもしろいに違いない。名作である『吾輩は猫である』(夏目漱石著)は、大半が悪口である。名作である『坊っちゃん』(夏目漱石著)は、大半が悪口である。あるいは、読者の多くがそこに登場する悪口しか覚えていない。それでもこれだけ作者は尊敬されてお札の肖像になり「必読書」とされているのは、それが創作だからだ。
 このように、悪口をうまく昇華して名声を得てはいかがだろうか?
 こう言うと必ず「おまえがやればいいだろう」と言われる。それが生憎、私は悪口をまったく思いつけない人間なので……。

とうとうマンション完成。


 
 
 

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