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239 生き方は生きて学ぶしかない。

どう生きるか? その問いズルくない?

 まあ、見ていない映画のことを言うのもなんだけど。映画『 君たちはどう生きるか 』のタイトルを見たとき、もちろんその前に吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』があって、そこからの漫画『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著、羽賀翔一著)が話題になっていたことを思い出した。
 いまのところ、書籍も漫画も読んでないし、映画も見ていない。
 ただ、「どう生きるか」は、生きている間にずっと、ただしふわっと浮かんでいるテーマだろうから、きっと誰もが一度は考え、悩み、それなりの結論を出してきた問いだと思う。
 私も私なりに考えてきたけれど、今回はそのことを書くのではない。そもそも、私たちは生きてみなければ、生き方を考えることはできないのではないか、と思っている。生き方は、生きてみなければわからない。
 だから「どう生きるか?」と問われても「いま生きている最中なので」と答えを保留するのが正解な気がする。
 その意味で、「どう生きるか?」はある種、ズルイ設問にも感じていた。あざといとまでは言わないけれど、ちょっとズルイ。なぜなら答えを求めている問いではないからだ。正解はない。答えは、それぞれの人生によってなされる。ほかにどうしようもないではないか。
 もしも、模範解答があったとしても、私のようなひねくれ者は「そんなもの!」と拒絶してしまうだろう。
 もちろん、本や漫画や映画といったストーリー、先人たちの思念を知ることは、「どう生きるか」の参考になる。参考というか、そこに答えがあるのではないかと淡い期待を持って、そうした創作物、あるいはドキュメンタリーに向かうのではないだろうか。そしてもちろん、正解はないのだ。

お試し期間の延長

 ドラマ『95(キューゴー)』を楽しく見ている。そこそこの年齢になっている役者陣たちが、1995年、地下鉄サリン事件のあった頃を舞台として若者を演じているドラマだ。まだ途中だけど、「青春って結局、恋愛とケンカしかないのか?」と思ってしまうほど、恋愛とケンカのストーリーになっている。あまりにも普遍的で驚いてしまう。人気の漫画・アニメ・実写の『東京リベンジャーズ』も、2000年代を舞台としているものの、やっぱり青春はケンカだな、と思ってしまう。
 それはともかく、青春は一種の「お試し期間」と捉えることが多い。未成年者については法律で守られている。ところが、このお試し期間は短い。生物的に人間は成長が遅く、むしろお試し期間は長すぎると考えるべきかもしれない。江戸時代は寿命の短さもあったが12歳から14歳ぐらいで元服(成人)することが多かったらしい。いまよりもお試し期間は短い。その後の生きる方向性も生まれたときから決まっていることが多かった。どういう生まれかによって、人生の大半を決められてしまうからだ。
 それに比べれば近代は、青春時代の活動しだいで人生の方向をいろいろと変えることができる気がする。気がするだけで、そうでもないかもしれないけど、一応、ここで使うのは嫌だが「自由」だ。
 そう思いつつ、現代においては成人後も、ずっとお試し期間を続けることも可能だ。私だって、いつもなにかしら試しているわけで、それは青春時代に比べれば人生を左右するほど大きなことではないものの、ふらふらと漂ってみる。
 これが人生だとカッチリ決めるのもいいし、ふわふわと漂うのもいい。とにかく生きてみて、結論にたどり着くのかどうか。それを見てみよう。まあ、こんな生き方はダメな生き方なんだろうと思ったりもするけれど。自分で選んでいるわけだし。

進展。




 
 

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