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115 似てる?似てない?

親子、兄弟でも

 私は街を歩いていても、ほとんど有名人に気づかない。妻はとてもよく気づく。ドラマの中で「この俳優は、以前、あれに出ていた」といったことも、私より妻が圧倒的に詳しい。
 そもそも私は、名前と顔が一致しないし、人の顔が覚えられない。名前も覚えられない。酷いもんである。以前、新橋で「豊川さん! 久しぶり」とおじさんに声をかけられたとき、自分が豊川さんではないことを説明するのにかなり苦労したことがある。おじさんによれば、豊川さんは大阪の人でそこで長く彼と仕事をしていて、なにかヤバイことがあって行方をくらましていたらしいのである。だから新橋で出会うことは彼にとって「奇跡」だったわけだが、もちろん人違いだ。
 どこかに自分にそっくりな人が2人いる説などもよく耳にするけれど、それだったのか。あるいは単なる私同様に顔を覚えられない人なのか。
 似ている人が世の中にいてもそれは不思議ではない。人間の顔のパーツはだいたい一緒だからだ。
 先入観だが、「親子って似てるよね」とか「さすが兄弟姉妹ってすぐわかるね」といったことは、言葉としてはあるとしても現実に「そうかな」となりがち。「家、ついて行ってイイですか?」が好きなのでできる限り見ているけれど、これは、家と家族の話で、たいがい、親子や兄弟が登場する。実物が出てこなくても、写真や遺影として登場することがとても多い。
 先日も、自分の遺影を含めて壁に遺影をいくつも飾っている人がいた。
 正直、似ているなあ、というときと、あんまり似てないなあと思う時があるので、遺伝ってつくづく不思議だ。
 結局、パッと見た目だけで「似てる似てない」を判断してしまい、それも顔だけで判断するから、遺伝で伝わる形質のうちの一部で判断するのだから、それはどうしたって、似ているケースとあまり似ていないケースが出てくる。
「お父さんそっくり」と言われる子の、どこがそっくりなのかといえば、実は仕事の仕方だったり、友人との付き合い方だったり、酒の飲み方だったりするので、なにも顔だけで決め付けることはないのだ。
 しかし、似顔絵があるように、私たちはどうしても見た目の似た部分を探してしまう。

誰だ?

似顔絵は似ているのか?

 いまはなき「週刊朝日」には、名物コーナーとして「山藤章二の似顔絵塾」があり、デフォルメによるいわば大喜利状態が人気を得た時代もあった。
 似顔絵というからには、「似てないとダメ」である。その似ているか似てないかの判定は、描かれた当人ではなく家族や第三者によってされることが多いだろう。
 たいがい当人は「似てない」と感じるように出来ている。
 それはいつも鏡の中の自分しか見ていないからである。おまけに、自分に都合良く脳内で修正が行われているからだ。あるいは、都合良く直視しないようにしているからである。
 画家は、よく自画像を描く。これはたいがい、当人も周囲の人も「似ている」と判定する。つまり、絵の巧さの一種の「見本」となっている。自分のことをこれだけ描けるのだから、きっとほかの人のことも同じように描けるだろう、というわけだ。
 しかし、そうだろうか。

自分をじっと見つめる人

 自分を描くことと他人を描くことは、恐らく、脳内の処理でもかなり違っているのではないだろうか。
 動物の多くは鏡の中の自分を、自分と認めない。同じ仲間の誰かだろうと思うか、あるいはそれさえもなく、まったく知らない生物として見ている。さらには、「わかんないや」とまったく興味を示さない。
 我が家の犬は、鏡に映る自分を自分とは思っていないようだし、仲間とも思っていないようだ。無関心である。テレビに犬が映っているときも、まったく興味は示さない。子犬の鳴き声には少し反応するけれど、それも大して強くはない。
 こう考えたとき、人間だけが鏡の(あるいは水面の)自分を、自分として認識するのも、一種の訓練による学習結果なのではないか。もしも、鏡の世界は「虚構」と教えて、そこに映っているものを「信じるな」と教育したら、無視するようになってしまうかもしれない。
 では、写真はどうか。自分が写っている写真を、好む人と嫌う人がいるのは事実で、「写真、撮ろう」と声をかけてノリノリの人もいれば、「やだ」と拒絶する人もいる。プリクラで誰だかわからなくなるぐらい、さまざまな装飾を施すのも、実はナマの自分を見たくない気持ちがわずかながらも、あるからかもしれない。
 他人を見るより、自分を見る方が好きな人は「ナルシスト」と呼ばれて、変わり者扱いされがちだ。つまり、自分のことばかり見ている状況は、褒められることはない。
 もしも、毎日、一定の時間、自分の顔と向き合う人生(たとえば毎朝、化粧をするとか)なら、そうではない人に比べて、自分の捉え方が違うかもしれない。あるいは熱心に自画像に取り組む人もきっとそうだろう。恐らく観察眼を鍛えることで、「似てる似てない」の判定をより深くできるようになるのかもしれない。
 30年以上前の話だが、法廷での被告を描く画家と仕事をしたことがあった。正直、彼の絵はとても評判はいいのだが、私からするとそれほど似ていない。その画家が言うには「似てる似てないではなく、判決を言い渡されたときの被告の心情を伝えたい」そうだ。短時間に仕上げるその絵には、確かに奥深いなにかを感じることができた。
 
 
 

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