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333 諦めることを学ぶ

夏をあきらめて

 サザンオールスターズ「夏をあきらめて」という歌がある。1982年の歌だそうだ。サザンは好きな方だが、正直、あまりにも曲が多くて覚えることをあきらめている。「ああ、この曲はあの曲だ」と思ったら「いや違った」となることがとても多い。似ている似ていないの問題ではない。全体としてふわっとサザンの曲、という感覚で聴いているからだろう。この曲は研ナオコがカバーしてヒットしたので、また違った印象もあるけれど。
 それはともかく、8月も終わりに近づくと、いろいろと諦めることを学ぶ頃合いだ。
 子どもの頃、夏休みの前に計画を立てる。厳密には「立てさせられる」。「そんなのわかるはずない」と最初から投げやりな子どもだったので、計画は2種類つくる。ひとつは大人にとってわかりやすく希望を持ちやすい計画。もうひとつは自分だけの計画だ。
 もちろん、大事なのは自分だけの計画である。
「よし、夏休みの間に、これとこれをやるぞ!」
 うまいことそれが成就することもある。しないこともある。悲喜こもごもで8月下旬になると、建て前の計画について大人がガタガタ言い始めるので、もともとそっちはてんでやる気はなかったのだから、やれているはずもなく、どんな非難も甘んじて受けつつ、たまには涙を見せたりして誤魔化していく。
 というわけで、8月下旬はなんだか苦い季節でもある。
 子どもの頃から毎年、こうした積み上げをしてきたので、少しは学習して「夏の間にこれをやるぞ」的な計画についても現実性を高めることになればいいのだけれど、そうでもない。毎年、やらかす。
「あー、今年もダメだった」と諦める。
 諦めが肝心、と大人たちは大人同士で言うのに、大人から子どもへは、あまり言わない。「諦めるな」と言う。余計なお世話だ。

諦めの悪さ

 一方、諦めの悪さを自覚する時期でもある。大人は「それは諦めて、こっちだけでもやれ」みたいに言う。だけど、こっちはそっちじゃなくて、あっちをやりたい。好きな方だけやる。あるいはやろうとする。その往生際の悪さ。要領の悪さ。自分の能力のなさ。いろいろなものが重なっていく。
 もちろんそこで、結果を出せることもあれば、出ないこともある。
「次こそは」と思う気持ちはあっても、たいがい次はない。同じシチュエーションは二度とない。あの夏は、あの夏の一度きりだ。
 秋でも冬でも春でも、それはたぶん同じなのに、夏だけは特別。子どもの頃のような休みではなくなっても、似たことを繰り返す。
 高校の頃、みんなで同じバイトをして稼いだおカネで旅行に行った。バイトはあまり楽しくなかったのだが、旅は楽しかった。あれは珍しく計画通りに運んだ。夜行列車で朝になって席をつくり、訛りの強いおじさんと同席になっていたことに気付く。そのおじさんは朝からビールをプシュッと開ける。「おまえらも飲め」。「高校生なんです」と誰かが言う。「そんなこと関係ない。ほい」とビールを渡される。みんなで廻し飲みした。
 あのビールはうまくなかった。けど、忘れられない味だ。
 その時の友達とはどういう終わり方をしたのか、実ははっきり覚えているわけではない。大学受験の壁によって破壊された、というべきだろう。それぞれ志望はバラバラだし学力もバラバラだし家の経済状況もバラバラで、やっぱりそこでもみんなは、なにかを諦めたはずだ。
 同時に、自分の中に残っている「諦めの悪さ」も自覚する。性懲りも無さ。しつこさ。未練。執念。馬鹿の一つ覚え。
 最終的に私は諦めきれずに、出版関係の仕事についた。ほかの人とは違うアプローチで、遠回りをしているけれど。それはあの夏の無目的な旅行と同じようなものだ。いまはビールの味もちゃんとわかる。もしあの頃の学生みたいな連中に会ったら、「おまえらも飲め」と言う側になっている。

諦めない。




 

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