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269 心を奪われる

そもそも大した心でもないけど

 知性のランキングは比較的、わかりやすいものがありそうだし、世の中にはそれに近いもので仮想的なヒエラルキーを生み出している。結婚や就職でこの知性のランキングのどこかに引っかかって、思ったようなステージへ行けないでいる人は多いのではないだろうか。もっとも、明確な知のランキングによって順番がつけられているのではないから、たとえばざっくり「大卒」とか「●●大学卒」といったいわば看板で「だいたいこのあたり」と位置づけられていることも多いかもしれない。
 一方、私たちには心がある。
 しばしば、心は大事、との声を耳にする。心、大事です。まあ、大事だよね。だけど、心についてはランキングがない。比較するにしても、相手の心の内を知ることはとても困難だ。いや、たいがいの人は「それはムリ」と最初から諦めている。それでいて、第三者から「○○さんてね」とその人の心の一部を垣間見るような情報を貰うと、いいことを知ったと思う。本当かどうか確かめようはない場合が多いのに。
 たいがいは、もっと俗な、情報とも言えないような情報から、相手の心を推察したり決め付けることの方が多い。「AさんよりBさんの方が心が優れています」といった言い方は、いまのところ成立しない。心の優劣を計ることはしないし、尺度もないし、あったとしても認める人は少ないだろう。
 ある人にとっては素晴らしい心の持ち主と見えた人物も、別の人にとっては冷酷非情な人に見えるかもしれない。あるいは去年はいい人だったのだが、今年はよくないかもしれない。野菜の出来不出来のように。
 誰もが自分の心は大事。だけど、その重みはよくわかっていない。どの程度のものなのか、想像することもあまりしないだろう。
「わたし、最近、心がちょっと重くなってきて……」という話をしてくる相手とは、あまり話をしたくない。なんだか怖い。
 それでも、私たちは心が重くなったり軽くなったりする。明るくなったり暗くなる。あったりなかったり。広くなったり狭くなったりもする。心を奪われたりもする。心を取り戻したりする。虚ろになったりする。
 自分の心がどんなものかも、大して知らないのに。

絶対的な存在ではない

 たぶん、心は絶対的な存在ではない。あるといえばあり、ないといえばない。ゼロと無限大の間のどこかに位置していて、それは日々、いや時々刻々と揺れているのではないだろうか。「だいたい、このあたり」といった共通の感覚はある。それは、恐らく後天的な教育によって、心の一部をある程度ほかの人にもわかるように揃えているから言えるのだろう。教育や生き方のまるで違う人と出会ったら、その尺度も使えない。
「いちいち、心まで気にしてられない」となってしまう。
 たとえばいまガザ地区にいるパレスチナの人々の心。そこにいるイスラエル軍の心。ウクライナの人々の心。そこにいるロシア軍の心。
 一般的に見ると、「人々」とあえて記したけれど、「同じ人間だ」と推測することはできるかもしれない。そこは期待したいのである。実際、想像し推察している人は多い。一方、「軍」とくくった側は、そもそもそこに心があることを、私たちはあまり気にしない。軍は心で動いていないと考えてしまう。想像したり推測するだけムダだ。でも、本当にそうなのかはわからない。
 私はいま、心を奪われている。今月に入って、いよいよしっかりやらなくてはならないことが明確になってきているからだ。そうすると、そこに心を奪われていく。ほかのことまで対応しにくくなっている自分がいる。なにかに夢中になることは、生きて行く上ではとても重要だ。同時に、夢中になっているときはどこか疎かになってしまう。
 疎かなところだけを取り上げたら、そこは「心ない」状態になっている。すべてに行き届くような広い心があればいいけど。いや、もし広い心があったとしたら、その大多数を、懸案事項に集中させてしまうだろうから、やっぱりどこかは疎かになるに違いない。
 その疎かな部分が、たぶん、こうした文章の端々に現われる。それは人間として仕方の無いことなんだ、と開き直る。そういう態度がもう、心のありようを表してしまい、心の狭いやつになってしまう。ケンカや悪態の得意な人の多くは、きっと狭い部分だけで対応しているのかもしれない。心の大多数はまったく別のところにあるのだろう。でも、それはわからないのだ。

新しい絵に取りかかる。


 
 
 

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