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249 自分発のストレス

ストレスの質が変わった

 自分の体調、そして年齢などから、日々の仕事を見直して早くも2年目となった。最初の1年は引きずっていた仕事もあったので完全に新しい日々へ移行したわけではなかったが、いわゆるソフトランディングで昨年9月に商業用で関わっていた本も出版されて区切りをつけた。
 ストレスは万病の素だ。ストレスによって、さまざまな支障が出る。とくに、自分の好きなことを仕事にしている人、仕事が好きになってしまった人は要注意だ。ストレスの加減がわからなくなるからだ。
「前はこれぐらい平気だった」が、いつの間にか平気ではなくなっている。それに、まったく同じストレス耐性ではない可能性もある。前の自分はこなせたことを、今度はムリかもしれない。中高年になるどこかで、あるいはスポーツ選手ならもっと早い時期に、そんなことを感じるのではないか。
 いままで普通にこなせていた練習をケガや加齢で出来なくなれば、自分のストレスへの抵抗力も減っていると気付くことができるかもしれない。
 仕事では、昭和の頃なら「酒の飲み方」や「遊び方」で計っている人がいた。「昨日の酒が抜けない」、「今夜は飲まないでおこうかな」、「もう、徹夜で麻雀やれないよ」、「朝四時起きのゴルフはしんどい」、「日帰りの出張はしたくない」といったグチがこぼれるようになると、恐らく、これまでは耐えられたストレスに、もう耐えられなくなっているに違いない。
 自分の経験でいけば、昨年9月といまでは、ストレスの量も質も大きく変わった。量は比較的コントロールしやすいけれど、質については、日々の動きの変化の中で気付かされた。
「やらなければならない」と自分で自分にプレッシャーをかける場面が減った。しかも、プレッシャーをかけていないのに、それなりにやらなければならないことを、粛々とやっている自分がいる。このnoteも、249回目になっている。なんのプレッシャーも感じていない。
 ストレスは適度に必要と言われている。ストレスゼロになってしまうと、なんにもしなくなるかもしれない。

量より質

 なにかをしている限り、それが趣味だろうが仕事だろうが、少しはストレスになるはずだ。そのストレスのうち、量(あるいは稼働時間でもいいけど)はそれなりに維持したまま質を変化できるのではないか、とふと思ったりもしている。
 いまの稼働時間は、昨年の9月以前と大差ない。ある時から残業をしなくなったのだ。それでいてほぼ毎日、完全休業なしでなにかをし続けている。これを労働時間とすれば、労基法に違反しているに違いない。
 つまり、量はそんなに極端に変わっていない。
 締め切りは8割は自分で設定している。2割はどうしたって存在するさまざまな制約によって自動的に決まってしまうもので、抵抗しようがない。しかも、いまのところ締め切りはほぼ守っている。それを守らないと、期待している収入が得られないのだから。
 では、いま抱えているストレスはどんなものなのか。
 これが自分でもよくわからない。麻痺しているわけではないと思う。最近はじめた絵については、相変わらず集中力の限界が早く、毎日、わずかな時間しか取り組めていない。これをもっと長時間やろう、などと思ったら体に異変が起きそうだ。新しいことに挑戦しつつ、だけど、それだけに没入するのではなく、これまでやってきたことも適度にやる。比重はいまのところ95対5ぐらい。絵はわずか5のところでやっている。だからストレスにならない。嫌いになってしまうかもしれないから、自分を少しは甘やかして、「ムリしなくていいよ」と声をかけているわけだ。
 自分から生まれるストレスは、そもそも質が違うのだろう。これが組織の中ではそうはいかない。よく社長が一番元気な企業があるけれど、自分から発したストレスは質が違うから、体に響かないのかもしれない。あくまでもかもしれない、である。それだって度を越せば危ないかもしれない。
 今後、高齢化が進んでいったとき、高齢者のストレスはいろいろな研究が進むかもしれない。ああ、きっとどこぞのサプリメントで研究しているんだろう。そして明日にでもテレビCMで見ることになるかもしれない。それはそれで別のストレスだ。

たぶん監視カメラ。


 

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