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18 偶然と必然 恋のはじまり

出会いは偶然かもしれないが

 恋人との出会いは偶然かもしれないが、やがて、それが家族になっていくこともあり、結婚することもあれば、離別することもある。そしてそうなってみたら、すべては必然だったような気がするだろう。
 私は、いろいろな本や作品をちょこちょこと読んだり見たりしている。必ずしもいっきに最後まで進めようとはしていない。そういう時もあるが、だいたいは、その都度である。
 微睡みの中で、ふと気になる本を思い出し、続きを読んだりもする。新しい本に手を出すときもある。仕事の合間に、ふと気になって読みかけの本を手にすることもある。あるいは新しい本を手にすることもある。
 これは、すべて「偶然」のような気がする。
「怖さと鈍感さ」で書いたように、偶然、読みかけの2冊の本にゴキブリの話が出ていたりする。こういう偶然は毎日のように起きるので、予期していない点では「偶然」でしかない。だけど、脳内ではそれが結びついて「必然」となっていく。
 恋のはじまりは、偶然だと記したが、それも一瞬そう思うだけのことだ。

ドラマ『三体』を見始めた

 WOWOWでドラマ『三体』を見始めた。この数年、SNSではとても盛り上がったSF小説に基づいたドラマだ。
 いつからか、長い作品に手を出さなくなっている。スティーブン・キングのファンだったのだが、作品数の多さ、そしてその長さに圧倒されて、いつしか手に取らなくなった。シリーズものも、最後に手にしたのはたぶん『検屍官』シリーズ(パトリシア・コーンウェル著)で、しかも2作ぐらいしか読んでいない。ラドラムが『暗殺者』で登場し、のちに『ボーン』シリーズとして延々と続いていったときは少し付き合ったものの、映画化されたので追うのをやめた。そして、この『三体』(劉慈欣著)も、気後れするには十分なボリュームだったので、諦めていた。
 原作とドラマは違う。別物である、と私は以前から認識しているので(アガサ・クリスティーや横溝正史を読んでから映画を見た人にはわかると思う)、決して「ドラマを見たら読まなくてもいいよね」とは言わない。
 ただ、そもそも読むのを諦めていた作品がドラマや映画になってくれたら、それはそれでありがたいのである。
 そのドラマ『三体』の2話のタイトルは『射撃手と農場主』。射撃で的に正確に穴を開けていく。もし的に二次元の生物がいたら、この現象を自然現象として解明すべく穴の周囲や構造について研究するだろう。しかし射撃手に辿り着くことはできない。次元が違うからだ。農場主に飼われている七面鳥。毎日11時に餌が撒かれる。これが続くと七面鳥の中にいる研究者は、この世界は毎日11時に餌が降ってくる世界だと判断するだろう。だが、それは感謝祭で終わる。農場主はある日、餌を与えず殺しにやってくるのだ。
 つまり、いま私たちは地球で宇宙の謎を解明すべく物理学を通して研究を進めているが、そもそも物理学はこの地球上でのみ、あるはこの次元でのみ通用するもので、宇宙規模で考えたとき、射撃手や農場主がいたとしても、そこに辿り着くことは不可能だ、という考え。中国共産党の下で1970年代頃に進められていた研究(主人公たちの父母世代)の結果がいま、なにかをもたらしている。軍隊は誰と戦っているのか。「何」と戦っているのか。

遠野遥著『浮遊』を読み始める

 「2022年文藝秋季号」の遠野遥著『浮遊』を読み始める。「社会の持つ緩さと苦手な犯人捜し」に書いたように、今頃、「2022年文藝秋季号」をちょくちょく読んでいるのだが、この作品は、『鹽津城(しおつき)』(飛浩隆著)のあとに掲載されていたので、そのまま読み始めたのである。
 『鹽津城(しおつき)』(飛浩隆著)は、『古事記』とか『日本書紀』の冒頭を思わせる神話なのだろうと思うのだが、私もそう感じつつ、「いや、神話のはずがない」と勝手に決め付けて読んでいた。出版側の意図に乗らなかったのだ。神話というよりも、多次元の実話を散りばめたコラージュのような作品ではないかと勝手に思って読んでいた。
 そして、遠野遥著『浮遊』はゲームをする話が冒頭に出てくるので、ゲーム空間と現実との関係性が語られるのかもしれないけれど、考えてみればゲームでは「神の声」が聞えてくることがあるよね。あ、私がおかしくなったわけではなく、どんなゲームもルールがあって「これ以上は進めない」とか「ここにはもうなにもない」といった表示や言葉が現れることがある。これはゲーム内では「神」だよね、とふと思ったのだ。
 ドラマ『三体』と『鹽津城(しおつき)』(飛浩隆著)と遠野遥著『浮遊』は、なんの関連もないので、それを勝手に結びつけているのは、偶然にそれを見たり読んだりしている自分自身である。
 この偶然こそが恋であり、いつかそれが必然へと昇華するのではないか。
 私はそれを毎日、観察しているのだ。自分は射撃手でも農場主でもないけれど偶然が必然になる瞬間を観察しているのである。
 


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